◆ こまち号が逆走する訳
平成9年に開業した秋田新幹線ですが、秋田駅〜大曲駅間は逆向きに走ります。
初めて乗った人は驚くとともに、なぜこんな線形にしてしまったのか疑問を感じるかと思います。
そもそも秋田新幹線は在来線と新幹線を直通させただけのものであり、基本的には在来線のままです。もともと田沢湖線は盛岡と大曲を結ぶことを目的とした路線であり、秋田との直通は想定外でした。
東北新幹線の開業により秋田への接続線として位置付けられてからは幹線並みに整備されましたが、建設費圧縮と駅前商店街の反対により大曲での接続方向はそのままとなりました。
そして秋田新幹線の工事に際して再び議論が再燃し、大曲の北方に新駅を設置する案や大曲駅の手前から高架化して接続方向を逆にする案などが比較検討されました。
しかし、またしても費用対効果への疑問や地元の反対によって頓挫し、逆走が解消される機会は永遠に失われたのです。
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◆ 南部藩に占領されたままの花輪線
幕末に勃発した、新政府軍(官軍)と旧幕府軍(奥羽列藩同盟)との戦いは東北全土にも広がっていました。
花輪線の半分近くを有する鹿角市は、かつて岩手県の南部藩(盛岡藩)の領地でした。
奥羽列藩同盟から脱退し官軍に寝返った秋田県は、東北の裏切り者として集中砲火を浴びましたが、官軍の勝利によりその報償として鹿角郡を分け与えられました。
しかし、終戦から150年以上経った現在でも、鹿角市内の花輪線には、岩手県を表す「陸中」を冠した駅が存在し、花輪線が接続する東北本線がJRから切り離された後も運行管理は盛岡支社が行っています。
つまり、花輪線は現在でも南部藩に占領されたままとなっているのです。
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◆ 謎の人力鉄道
今や鉄道の動力は電気とディーゼルが主流ですが、昭和40年代までは石炭が主役で、一部ではガソリン車も存在しました。
また、鉄道の創世記には馬力が主役で、市街地の短区間路線では人が直接車両を手で押すという形態の鉄道も存在しました。これが「人車軌道」と呼ばれるものです。
主に関東地方で運営されていましたが、秋田県にも1路線存在していました。旧二ツ井町で運行されていた「中西徳五郎人車軌道」で、その名のとおり個人経営の路線です。
国鉄二ツ井駅から船場までの間を結んだ貨物路線で、旅客扱いはしていなかったとされていますが、資料がほとんどなく、その全容は謎のままです。
人が手で押すという非効率さから、関東地方のほとんどの路線が馬車やガソリンに動力を切り替えましたが、二ツ井の路線は戦時色が強くなった昭和15年に廃止されています。
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◆ 意外と身近なアイヌ語
東北地方北部から北海道にかけては太古の昔から先住民族であるアイヌ民族が住んでいました。
その後、明治期の北方開拓により次第に北へと追いやられ、今では北海道などに少数が住んでいるだけとなっています。
しかし、その文化は現在でも各地に残されており、特に地名にそれを見ることができます。
アイヌ語では、沢や川のことを「ナイ(内)」と表記するとされていて、山間部の駅名で「内」が付く駅はアイヌ語が語源となっている可能性があります。
ちなみに秋田内陸縦貫鉄道の「笑内駅」は「オ・カシ・ナイ」というアイヌ語の組み合わせに漢字を当てたものであるとされています。
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◆ 五能線の「五」って何?
国鉄線の名称の付け方にはいくつかのパターンがあり、両端の駅の漢字をくっつけたもの、代表駅の名称を付したもの、旧国名を用いたものなどがあります。
県内のJR線はそれらのどれに該当するかは一目瞭然かと思いますが、では、五能線はどれに該当するかご存じでしょうか。
「能」は能代からきていることは容易に推測できますが、「五」が何かは路線図を見ただけではなかなかわからないと思います。
実はこれは「五所川原」の「五」です。五能線の終点は川辺駅ですから、前述したパターンの例外かと考えそうですが、もともと五所川原〜川辺間は「陸奥鉄道」という私鉄でした。
また、東能代〜能代間も奥羽本線の支線に位置づけられていたので、開通時はまさに五所川原と能代が両端の駅だったわけです。
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◆ 鉄道を2度逃した五城目町
明治5年に日本で最初に開業した鉄道は、その利便性と経済効果の大きさから急激に全国に路線網が広がっていきました。
それは、常に後進地域とされていた東北地方も例外ではなく、明治24年には東北本線が全通しています。
この動きに触発された秋田県は、官営鉄道の敷設を強く国に働きかけ、軍部の意向も相まって、青森方と福島方の両方から建設が始まりました。
しかし、今まで見たこともない鉄道の存在は必ずしもすべての県民に歓迎されていたわけではなく、土地の接収や既存の交通網への打撃が不安要素となっていました。
特に、奥羽本線が町の中心を通ることになっていた五城目町では、強い反対運動が展開され、やむなく隣町の一日市(現:八郎潟町)に路線が変更となりました。
ところが、鉄道の良さを知ったときには既に手遅れで、何とか駅名を「五城目駅」としたことに成功したものの、鉄道に対する未練は捨てきれず、一日市から五城目までの鉄道が敷設されました。
しかし、大正15年に駅名を失い、昭和44年には鉄道も失いました。鉄道反対運動の代償は取り返しのつかないくらい大きかったのです。
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◆ 電車通という名の道路
秋田市の土崎地区には、「旧電車通」という名の道路があります。
しかし、JR奥羽本線からは遠く離れており、付近にも電車らしきものは見当たりません。
実はこの道路は、旧秋田市交通局が営業していた路面電車の跡で、昭和41年まで走っていました。
この路線は、明治22年に馬車鉄道として開業したもので、県内最初の国鉄駅である陣場駅が開業したのが明治32年ですから、県内最初の鉄道ということになります。
ただ残念なことに、現地に行ってもかつての電車通であったことを示すものはなく、港町としての活気も失われています。
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◆ 新幹線より速い普通列車
秋田新幹線の秋田駅〜大曲駅間は、複線の片方だけを標準軌化したため、ダイヤによっては、こまち号と普通列車が並走する場面に遭遇します。
こまち号はノンストップで最高速度130km/hで走行し、普通列車は各駅停車で最高速度110km/hですから、一見すると両者は勝負になりません。
ところが、基本的に両者は別路線としてダイヤが組まれるため、こまち号同士の行き違いや徐行信号の現示などにより、一時的に低速になる場合があります。
そこに通常走行してきた普通列車が来ると「こまち号を追い抜く普通列車」が見られるわけです。
滅多に見ることはできませんが、並走するこまち号を追い抜いたときの優越感はたまりません。
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◆ 国鉄に見捨てられた浅舞の悲劇
五城目町は鉄道反対運動の代償が高くついた例ですが、旧平鹿町の浅舞地区はまったく逆の例です。
平鹿郡に奥羽本線を敷設するとき、横手町と浅舞町は猛烈な誘致合戦を展開し、終盤は浅舞町が優勢だったようです。
しかし、政治の力を動かしたのは横手町の有力者であり、土壇場で横手に決定しました。
その後、横手町は発展して市制を敷き、現在も平鹿郡の中心地となっている一方、浅舞町は合併により町名を失い、強い未練から敷設した横荘線も昭和46年に廃止となっています。
さらに、平成17年には大合併により浅舞を合併した平鹿町も横手市に吸収されてしまいました。国鉄争奪戦に敗れたことが末代まで尾を引くことになったのです。
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◆ 歴史に翻弄された鳥海山ろく線
羽後本荘駅と矢島駅間には、第三セクターの由利高原鉄道がありますが、その歴史は波乱に満ちています。
もともとは、横手と本荘を鉄道で結ぶべく設立された私鉄の横荘鉄道が始まりでした。
横手側は旧東由利町の老方まで路線を延ばしたものの、本荘側は遅々として工事が進まず、前郷まで開通したところで資金難に陥ります。
昭和12年には国鉄に買収されますが、国鉄に横荘鉄道実現の意思はなく、線路は大きく南東方向に曲げられてしまいます。
その後「矢島線」として矢島まで開通し、その先、奥羽本線の院内駅までの延伸が計画されますが、国鉄の崩壊に伴い、路線全体が廃止対象となってしまいます。
しかし、昭和60年に第三セクター鉄道としての再生が決まり、今に至っています。
開業当初は黒字を計上していましたが、年々利用客は減り続け、最近は廃止も検討されてきています。
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◆ 鉄道版戊辰戦争
国鉄線の名称の付け方に一定のルールがあることは前述したとおりですが、県境にまたがる路線の命名に際しては、しばしば争奪戦が繰り広げられます。
大曲と盛岡を結ぶ田沢湖線は、全通前はそれぞれ県境をはさんで「生保内線」「橋場線」と呼ばれていたのですが、全通に際しての名称が議論されました。
秋田県は最初から「田沢湖線」を主張していましたが、岩手県は「盛大線」または「盛曲線」を主張していました。
しかし、沿線に主要な観光地を持つ秋田県が優位に立ち、昭和41年に秋田県の主張する「田沢湖線」に決定しました。
ところが、岩手県はただでは起きませんでした。同じ年に全通した北上〜横手間の路線を、決まりかけていた「横黒線」という名称を強引に「北上線」に変えてしまいました。
世が昭和の時代となっても戊辰戦争は終わっていなかったのです。
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◆ 秋田内陸線は幹線候補だった
奥羽本線の線路選定に紆余曲折があったことは前述したとおりですが、大曲〜大館間は2つのルートが比較検討されていました。
線路選定に当たっては当時の陸軍が強い影響力をもっており、奥羽本線の建設を推進したのも、軍事物資の輸送の確保が目的でした。
そのため、海からの艦砲射撃で線路が破壊されることを恐れ、海岸部の敷設には強く反対したとされ、能代を通すことにも難色を示したといいます。
そこで、有事の輸送路確保という観点から、大曲から内陸部を通り大館に抜けるルートが計画されました。これが「鷹角線」であり、現在の秋田内陸縦貫鉄道です。
結果として能代を通したことで奥羽本線は幹線としての地位を築き上げましたが、もし秋田内陸線が奥羽本線を名乗っていたら、今とはまったく異なる地図になっていたかもしれません。
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◆ 普通列車が停まらない駅
国鉄時代に、信号場や季節乗降場だったところが駅に昇格した例は多く、秋田県においても、桂根駅と折渡駅がこれに当たります。
もともと周辺人口が少ないため、普通列車であっても1日に数本しか停車しません。
ところが、開業当初は有人駅でありながら、今では普通列車も通過することになってしまった駅が存在します。奥羽本線の糠沢駅です。
昭和31年に開業した同駅は、旧綴子村の端に位置し、通学の学生でたいへん賑わった時期もあり、かつては駅員も常駐していました。
しかし、鷹巣町に編入され経済の中枢を奪われると、周辺が急激に閑散となり、乗降客数は激減しました。そして昭和45年には無人化されています。
さらに、到達時分の短縮を目的に、701系電車が投入されたのを機に日中の普通列車を通過させるようになりました。これは旅客駅として設置された駅としては県内唯一です。
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◆ 呪われた折渡トンネル
羽越本線の折渡駅〜羽後岩谷駅間には「折渡トンネル」という長いトンネルがあります。
大正13年に開通したこのトンネルは、日本で最初にシールド工法が採用されたとして土木史上では有名ですが、実はあまり知られていないもう1つの歴史があります。
明治から大正にかけて造られた鉄道は、大陸から連行した中国人や朝鮮人を強制労働させたものが数多くあり、受刑者や出稼ぎ労働者を「タコ部屋」で働かせていた例も少なくありませんでした。
難工事だった折渡トンネルの完成までは多くの人柱が立てられたという噂もあり、付近での幽霊の目撃情報が絶えませんでした。
そこで、事実を確かめるべく、折渡トンネルの周辺を調査したところ、多数の人骨が発掘され、噂は歴史上の事実であると確認されたのです。
その後、昭和26年に本荘保線区の職員によって供養塔が建立され、今でもお供え物が絶えません。
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◆ 鉄道拠点になれなかった十文字
旧十文字町は、その名のとおり交通の要衝として発展してきました。それは地図を見れば明らかで、国道と県道が四方から接続しています。
この地に官営鉄道が開通した明治38年には当初から駅が設置され、その後も十文字駅を起点とした鉄道計画が幾度となく持ち上がりました。
鉄道敷設法に十文字〜桧山台間が予定線として規定された際には一気に機運が高まり、宮城県への延伸計画という夢まで広がりました。
しかし、それらが実現することはなく、鉄道拠点として地位を築けなかった十文字は発展の機会を失ったのです。
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◆ 「上り」に下る列車
列車に「上り」「下り」があることは多くの方がご存じかと思います。すなわち、JRにおいては東京方面が「上り」で、青森方面が「下り」となります。
私鉄や第三セクター鉄道も基本的に主要駅のある方向が「上り」となりますが、必ずしも東京方面とは限りません。
秋田県内においてその唯一の例が秋田内陸縦貫鉄道です。同鉄道は、南北に路線が延びていますが、鷹巣駅が起点と位置づけられたため、北側が「上り」で、南側が「下り」となっています。
そのためJRからみれば、東京方面である「上り」に列車が下ってきている、という形になります。
国鉄時代は角館方面が「上り」だったわけですから、第三セクター化によって上下が逆さまになったという全国的にも珍しい例です。
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◆ 県内バス会社はもと鉄道会社
秋田県内で路線バスを運行している会社は3社(秋田中央交通、羽後交通、秋北バス)ありますが、このうち、秋田中央交通と羽後交通はもともと鉄道会社でした。
秋田中央交通は、八郎潟〜五城目間に電車を走らせていました。路線は昭和44年に廃止となりましたが、今でも廃線跡に沿った県道に廃止代替バスを走らせています。
一方、羽後交通の歴史は複雑です。横手と本荘とを鉄道で結ぶことを目的とした「横荘鉄道」と、湯沢〜西馬音内間に電車を走らせていた「雄勝鉄道」の2社が出発点です。
経営効率化を目的に2社が統合し「羽後鉄道」となり、その後「羽後交通」に改称して鉄道経営をしてきましたが、利用客の減少に歯止めがかからず、昭和48年までに鉄道は全廃、現在に至っています。
なお、秋北バスは、昭和18年の戦時統合により県北にあった13事業者の合併によって誕生した会社で、最初からバス専用の会社でした。
ちなみに秋田市内では、秋田市交通局が路面電車を運行していましたが、進出してきた秋田中央交通に対抗する形でバス路線に転換するも競争に敗れ、平成17年度で交通局自体が廃止されています。
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◆ 能代には東西南北の駅がある?
時刻表や地図を見ると、「能代」と付く駅には「能代駅」「東能代駅」「向能代駅」「北能代駅」があるのがわかります。
もちろん、最初からそうだったわけではなく、明治34年に現在の東能代駅が開業した際は「能代駅」と名乗っていました。
明治42年に現在の能代駅が開業したのに合わせ旧能代駅は機織駅を名乗り、昭和18年に東能代駅に改称しています。
その後、大正18年に北能代駅が、昭和27年に向能代駅が開業して現在に至っています。
あれ?「南」と「西」はどうした?と言われそうですが、昭和40年に東能代駅と北金岡駅の間に南能代信号場が開設されています。
残るは「西」ですが、実は現在も過去にも存在していません。しかし、開業の可能性はありました。
男鹿から八郎潟西側を通り能代へ至る路線として男能鉄道構想があり、昭和12年には鉄道敷設免許の申請も行われました。
残念ながら開業には至りませんでしたが、もし開業していたら、西能代駅が設置されていたかもしれません。
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