「知っているけれど、わざと使わない言葉がある」
という書き出しで、鶴見俊輔さんが岩波書店の『図書』3月号にエッセーを寄せています。そのタイトルは「使わなかった言葉」。
鶴見さんは17歳から19歳の若いときにアメリカに留学していた。そのときお世話になっていた下宿先の女主人から「あなたを誇りに思う」(I am proud of you)とよく言われることがあったという。日本でそんなふうに言われたことがなかったので、おどろいてしまった。
「生まれた家から遠く離れて、日常生活を共にしている年長者から、誇りに思うと言われて、その言葉を裏切りたくなかった」そして、日本に帰ってから今まで、「あなたを誇りに思う」と言われたこともなかったし、言ったこともなかった。ただ、そう言いたいと思うときは幾度かあった。けれど、その気持ちを伝えたいと思ったときも、この言葉は自分の手の届かないところにあった。「私の日本語には、その言いまわしはない」この鶴見さんのエッセーは、はじめて proud という言葉を知ったときの私の記憶と共通するものがあります。自慢することを卑しむ伝統文化の中で育った私には、「誇る」ことと「自慢する」こととはどこが違うのか、はっきりしなかったためです。そもそも、proud がはたして日本語の「誇り」と同じものかどうか、翻訳辞典に依存しすぎる必要もないかも知れません。そんな制約はあるものの、proud の同等語としての「誇り」は、私にとって今では「わざとでも使いたい言葉」になっています。それにはある映画がからんでいます。
ナイト・シャマラン監督の『The Sixth Sense』(1999)は評判になった秀作で、観た人もきっと多いことでしょう。これはホラーでもスリラー映画でもなく、見方によっては主人公はブルース・ウィリス演じる少年心理カウンセラーではなくてコール少年であるし、または映画を見終わってもっとも印象を残すのは、じつはシングルマザーのリンであることに気づきます。
映画の最後のクライマックスのシーン。コールとリンの車中の会話。コールがリンに幽霊が見えるという秘密を明かす。それをにわかには信じることができず、しかし我が子を信じようと葛藤するリンに、コールが亡くなったリンの母親のことを話しだす。
「私を誇りに思っていました?」と子が親の気持ちを尋ねるなんて、自然な日本語にはそんな言いまわしは確かにありません。でも、かつて鶴見さんが下宿先のおかみさんから「I am proud of you.」と言われたというくだりを読んだとき、私はそれがこの映画のセリフに、表と裏のようにぴったり合わさった気がしました。コール: おばあちゃんがときどき現れるんだ。 (リンの体がこわばる。表情を顔に出さないよう、冷静を保って) リン: コール、そんなこと言うものじゃないわ。おばあちゃんは死んだの。わかるでしょ。 コール: 知ってる。(間)おばあちゃんがね、ママに・・・ リン:(諭すように)コール、やめて。 コール: おばあちゃんが、ママに言ってって。ママの踊りを見に行ったって。 (リンの目がコールにくぎ付けになる) コール: ママが子供だったとき、踊りの発表会の日におばあちゃんとけんかしたんだって。 それでママは、おばあちゃんが踊りを見に来なかったと思っているけど、おばあちゃん は行ったんだ。 (リンは手で口を押さえる) コール: 後ろに隠れていて、ママには見えなかったけど、おばあちゃんは見ていたんだ。 ママのこと天使みたいだったって。 (リンは泣き出す) コール: それから、ママが埋葬されたおばあちゃんのとこへ来て, asked her a question... She said the answer is "Everyday." (リンは両手で顔を被う。指の間から涙が伝う) コール: (かすれた声で)What did you ask? (間。リンは息子に向き直るが、なかなか声にならない) リン:(泣きながら)D'...do I make her proud? (Script by M. Night Shyamalan から)これで気づきました。「誇りに思う」というのは、自分のことを自慢するのではなくて、相手を誉めて勇気づける言葉であること。子供というのは、親に誉められるような人間になるように動機づけられる、ということ。だから、メダルをとったからではなく、お金を儲けたからでもなく、子供がただあるべき人間に育っているということを親が「お前を誇りに思う」と言葉をかけてやる、そういう文化こそ見習う価値があろうかと思います。
気づいたら、このエッセーもこれが第百話になりました。サイトを開設したときは、はたして、どれだけのライダーが趣旨に賛同してくれるものやら、まったく自信がありませんでした。防犯の知識は繰り返し雑誌で特集されるものの、盗まれた愛車を取り返そうという発想は、それまで全く目にすることはありませんでした。
今では、バイク盗難に立ち向かうライダーがこんなに日本にいることを、同じモーターサイクリストとして誇りに思います。それが、たとえ放置されたバイクにちょっと気を留めるだけのことであっても、当サイトのことを友人に紹介するだけのことであっても、どんなライダーでありたいかを、意識してであろうと意識しないでであろうと、みずから問うた結果のことである思うからです。
さて、もうすっかり春です。梅のウグイスに混じってモーターサイクルの排気音が響きます。
そういえば、私の日本語には、「春が来た」という言いまわしはありません。
春は「来る」ものではなくて「春になる」のが私の知る自然な日本語。どういうわけか、中国語(漢文)では「春になる」ことを「春来」と表現するために、平安朝の宮廷文学で「春来にけらし」などと、読み下し文がそのまま定着した感があります。「春が来た」という表現は、私にはどちらかというと翻訳調の文章語。おもしろいのは、英語もやはり「春になる」ことを 「Spring comes.」 と come を使います。Come は become に通じているのでしょうが、なにか、「春の女神」がやってくるような、春を擬人化したボッティチェリの絵画を連想してしまいます。
モーターサイクリストの誇りに「春の女神」がやさしく微笑んでくれますように。