新し物好きの私だけど、じつは携帯電話だけは嫌いで、持とうなどとは思わないでいました。だいいち、歩きながら手を耳にあてて声を張り上げている姿って、醜悪。電車の中では使っちゃいけない、車の運転中の使用は違反、となると、どこで使えるのだ、一体!
それがひょんなきっかけで、私も携帯、いや、ケータイを持つことになりました。ほんとは、いつか腕時計タイプのケータイが出たら買おうと思っていたんだけど、試作品はいくつか出てきたものの、まだ実用には遠いみたいだし。それに、いつの間にかケータイの料金の安くなったこと、しかも軽くて小さい。ピックリだなあ。
さて、ケータイと書いたのは、これが英語にまでなっているからと、もひとつは、ケータイはもはや電話機ではなく、いわば情報機器になっているせいですね。インフォメーション・アプライアンスって、以前は情報家電と訳されていたけど、家電ということばには家庭に据置の機器というイメージがつきまとうので、この英語のままのカタカナ表記でひろく情報機器を表すようになってきました。
ケータイ同士のみか、インターネットのメールまでやりとりできるのはとても便利で、利用価値を高めるものですね。そのうち、どのケータイからでもWEBサイトを閲覧できるようになるはずだから、そのときは、ケータイの小さな画面に合わせて、専用設計のページも用意できるでしょう。たとえば、放置バイクのナンバー4ケタを入力することで、盗難バイクリストから検索ができるようにするとか。これは来年のお楽しみかな。
さて、腕時計型ケータイを考える時、ウエアラブルという最近のキーワード思い出します。IBMあたりがしきりにウエアラブルなパソコンを計画しているらしい。つまり、ポータブルではなく、身に付けることなんですね。これ、突飛な発想ではなく、未来的であると同時に現実的でもあると思います。そもそも、腕時計こそウエアラブルな時計と呼べるわけで、だれもが腕に時計を付けていて当然とする20世紀ファッションは、よく考えると、一時的なものかも知れない。
なぜそれが当然のごとく普及しているかというと、ひとつには腕時計が小型化とファッション性において極めてよくデザインされていることがありますね。でも、ウエアラブルな時計が普及した最大の理由は、他でもない、産業革命以降の労働パターンが、時間と時刻を軸に機能しているから、と考えるべきでしょう。都会のサラリーマンが就業時間に合わせて一斉に都心に向かうのは、もちろん時計があるからではなく、逆にそうするために、時計が必要になっているわけだし。
さらに考えるなら、同じように誰もが当然と思っている現在の私たちのビジネスウエア、つまりスーツというのも、産業革命以降に確立した生活モードに適したウエアであったわけで(時代劇で見るサムライの刀は、腰に差すウエアラブルなツールに見えないか)、これが果して情報革命以降もこのウエアのままで行くのかどうか、疑問です。スーツが、会社に電話(固定電話)と机(情報ファイル)がある時代の産物であるなら、その電話と情報を持ち歩けるようになったら、服装も変わって当然でしょうね。ちなみに、男性のファッションが女性のそれに比べて著しく劣っているのは、「腕時計モード」から抜け出せないせいかも。
そこで、もしケータイが腕時計のようになったら、当然腕時計は要らなくなるでしょう。今だって、ケータイの待ち受け画面は時計だし。もっとも、腕時計はその基本デザインを日時計のダイヤルで標準化したために、洗練され、機能よりも装飾性を高めることで定着したことも否めない。その点ケータイはデザインとしての完成度はどうかしら。
とまあ、こんなふうに、今空気のごとく当たり前の腕時計が、やがて消える日が来るのか、キリスト暦2000年をいい機会に、思いを巡らしてしまいます。別に腕時計に限らず、次の100年、前の100年のスケールで考えてみるための特集が、テレビ、出版、WWWと、いろいろ組まれるでしょう。ここ毎晩、NHKで再放送している「映像の世紀」シリーズも、その意味で見ごたえのある作品でした。
追記: 私のケータイはJ-フォンですが、そのホームページを見たら、すでにSkyWebでインターネットアクセスができるようになっていました。そこに対応するHTMLタグのリストが掲載されていましたので、それに基づいてケータイ用の専用ページを試作してみました。まだ検索機能は工事中ですが、
http://www02.so-net.ne.jp/~cbx/js/index.html
でご覧いただけます。なお、DoCoMoのiモードなど、他の携帯サービスでも正常に表示されるか、お聞かせいただけると幸いです。(00.1.13)