シロイヌナズナ (Arabidopsis thaliana (L.) Heynh.)

研究者からみると、まさに実験のために存在するような生物がある。しかしそれらは、自然が生物を進化させることによって作り出した無数の生物の中から、先見性の優れた研究者が、実験生物として選び出したものである。しかも、それらは、生物界のなかの大きなグループを代表する種であり、その種を実験生物として研究することによって得た成果は、直ちにそのグループの様々な種の研究に重大な影響を及ぼすことがしばしばである。そのような生物には、T型バクテリオファージ、バクテリオファージλ、大腸菌、酵母、アカパンカビ、ショウジョウバエ、マウス、そしてシロイヌナズナがある。

私がシロイヌナズナの名を知ったのは、学生の頃、J. Langridgeが1955年に発表したシロイヌナズナのバイオケミカル突然変異体に関する短い論文を読んだことによる。X線を照射したシロイヌナズナから、いくつかの突然変異体を得て、それらの性質を調べているが、その一つは、チアミン要求性を示し、この変異体は、チアミンを合成するためのチミジン誘導体とチアゾールとの結合が阻害されていることによるとしている。これは植物で栄養要求性変異体を見出した初めての論文であると思う。私は、この植物が植物遺伝学研究のための新しい材料としての魅力を感じた。その後、シロイヌナズナを実際に育ててみたりはしたが、勤務先での私のテーマが植物ウイルスの研究であったので、長い間この植物を利用することはなかった。シロイヌナズナを使い始めたのは、55歳にして大学の付置研究所に転勤してからであった。そして定年退職するまでの10年間に、私たちの研究室では、シロイヌナズナの遺伝子に関する研究で、それなりの成果を上げることができた。シロイヌナズナについて少し述べてみたい。


実験植物としてのシロイヌナズナ

シロイヌナズナが実験植物として優れている特質は次のようなものである。
(1)高等植物の中では、発芽から種子の成熟に到る期間が飛び抜けて短いこと。種子を播いてから1月半ほどで採種することができる。種子は1週間ほどの低温処理で発芽するようになるので、条件の良い実験室や温室では、1年で5世代位栽培することが可能である。
(2)自家受精によって増える植物であるが、人為交配も容易にできる。これは、遺伝分析に有利な条件である。
(3)無数と言ってよいほど、種子を沢山得ることができる。アブラナ科植物であるから、莢ができる。一つの莢のなかに、小さな種子がたくさん詰まっている。シロイヌナズナ1個体当り5万の種子が得られるという。たくさんの種子が採れるということは、多数の個体を使って正確なデータを得ることができることのほか、突然変異体を見つけるのに、極めて有利な条件である。
(4)植物体が小さいこと。野外では高さ20cm以上になるが、実験室ではせいぜい20cm位である。照明灯と温度調節ができる適当な広さの実験室(培養室)があれば、何千個体をも育てることができる。
(5)染色体数が少なく、僅かに5対である。それらの染色体は他の植物と比較して、たいへん小さいが、顕微鏡下で形態と分子マーカーによるin situ ハイブリダイゼーションによって識別できる。
(6)シロイヌナズナのC値(C-value。1細胞内の染色体半数当りのDNA量。最近は通常DNAの塩基対の数で表される。)は、現在C値が知られている全高等植物の中で最も小さい。最新のデータ(イギリスのキュー・ガーデンズ[Royal Botanic Gardens, Kew]のPlant DNA C-Values Databases [release 4.0]による) では、157 Mbp(メガ塩基対)、すなわち1億5千7百万塩基対である。こう書くと、この値はいかにも大きく感じるかも知れないが、比較的小さいC値をもつイネの細胞核はシロイヌナズナの約3倍 (490 Mbp)、トマトは6.4倍 (1005 Mbp)、 タバコは36.5倍 (5733 Mbp)、テッポウユリは約220倍 (34496 Mbp)のDNAをもつのであるから、シロイヌナズナの細胞核に含まれるDNA量がいかに少ないか分かるであろう。C値が極めて小さいということは、遺伝子の分子レベルでの研究に極めて有利な条件である。
(7)シロイヌナズナは北半球の温帯地方に広く分布している。遠く隔たった地域に(例えば北米とヨーロッパに)分布しているシロイヌナズナの間には、DNAのレベルで分化が生じている。むろんDNAの分化を反映して、可視的な形質の分化も見られる。このように、それぞれの地域の環境によって分化し、遺伝的に固定した型を環境型(エコタイプ、echotype)とよび、シロイヌナズナでは、環境型を系統保存し、それぞれに名称をつけている。研究によく使われる系統は、北米産のColumbia、ドイツ産のLandesberg、ロシア産のWassilewskijaなどである。それらの系統は、いくつかの国の公的機関によって保存されている。アメリカ合衆国ではオハイオ大学のArabidopsis Biological Resource Center (ABRC)、イギリスではノッティンガム大学のNottingham Arbidopsis Stock Centre (NARC)、日本では宮城教育大学のSendai Arabidopsis Stock Center(SASSC)がシロイヌナズナの系統の大きなコレクションをもっている。中でも、ColumbiaとLandsberg erectaという系統は、基準的な系統として使われており、両系統の交雑により、分子マーカーを使った詳細な遺伝子地図(Genetic map)が作られ、遺伝子の単離に役立っている。
(8)植物に外来遺伝子を導入して、その遺伝子の機能を調べるには、効率のよい遺伝子導入システム(形質転換システム)を必要とする。1990年代の初め頃は、シロイヌナズナの標準的な系統であるColumbiaやLandsberg erectaに外来遺伝子を導入することは、それほど容易ではなかったが、1993年にインプランタ法が開発され、さらにその方法が改良されて、単離された遺伝子をシロイヌナズナに導入することにより、その機能を調べることが容易になった。


20世紀の最後の一大トピック

20世紀の最後の年の暮、2000年12月に、植物学界において記念すべき出来事があった。それは、シロイヌナズナのすべての遺伝子を含むゲノムの領域 (125 Mbp)が完全に解読され(つまり、DNAの主要な部分の塩基配列を決定し、配列を区分してすべて明らかにし、、その成果が学術誌Nature誌上に発表されたことである。この計画は、1996年8月に、Arabidopsis Genome Initiative (AGI)の名称の国際共同研究として始まった。参加したのは、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、日本の5カ国で、アメリカ3グループ、イギリスとドイツの研究所で構成する1グループ、フランス1グループ、日本1グループ(かずさDNA研究所)の6グループであった。当初は2004年にこの研究の終了が予定されていた、予定よりずっと早く完了したのは、目標を設定した国際共同研究の能率のよさ、研究グループの努力、経済的支援ももちろんのことだが、同時に進行していた国際的なヒト・ゲノム計画を支援するため、DNA解析技術とそのための機器がすばらしく開発・改良され、シロイヌナズナにも利用されるようになったことも一つの理由であると思われる。DNA配列が決定された長さは 115.4 Mbpで、その中には、25,498の遺伝子が含まれていることが明らかになった。これによって、シロイヌナズナのゲノム解読は一段落し、現在はこれらの遺伝子の暗号によって作り出されるすべての蛋白質(プロテオームproteome)の解析が、ハイスループットな解析技術の進歩によって、目覚ましく進んでいる。なお、シロイヌナズナに続き、日本を中心に、10カ国が参加して行われたイネゲノムの完全解読も2002年末に終結した。

シロイヌナズナとイネでのゲノムの完全解読は、これらの植物種のゲノムの大きさ(C値で示される)が他種と比べてずっと小さいことにより可能になったものである。例えば、イネ以外の主要な作物であるコムギのC値は16979 Mbpで、シロイヌナズナの108倍、イネの約35倍であるから、現状ではDNAの全塩基配列の決定はまず不可能と考えられる。しかし、高等植物の遺伝子の多くは、種間において共通に存在すると推測されている。各々の遺伝子は、むろん、塩基配列において、かなりの多様性が認められるとしても、基本的な構造と機能は共通であろう。シロイヌナズナとイネの全遺伝子の構造が解明されたことは、他の植物の遺伝子研究にも大きなインパクトを与えたことになる。


シロイヌナズナを見つけ出した人々

シロイヌナズナの系統分類学の歴史については、I.A.Al-ShehbazおよびS.L.O'Kane,Jr.の総説(2002)にかなり詳しく述べられている。シロイヌナズナは最初、リンネ(Linnaeus)によって、Arabis thaliana L.と命名された (1753)。Arabidopsisという名を創設したのは、A.P. de Candolleであった(1821)。ArabidopsisSisymbrium(カキネガラシ属)の亜属とされ、7種がArabidopsis亜属に分類された。しかし、シロイヌナズナはこれに含められなかった。また、これら7種は、現在Arabidopsis属に属さず、Rorippa(イヌガラシ属)、MurbeckiellaSisymbrium(カキネガラシ属)、AmmospermaNeotorulariaなど、他属に分類されている。Arabidopsisを属に昇格させたのは G. Heynholdで、シロイヌナズナ(Arabidopsis thaliana (L.) Heynh.)1種のみをこの属に入れた(1842)。その後、さまざまな種がArabidopsisに入れられり、除外されたり、この属の分類学上の歴史は複雑である。このことは、Arabidopsisのみでなく、アブラナ科植物全体の分類の難しさが反映しているように思われる。最近では、O'kaneとAl-Shehbazが、形態学的研究から、9種をArabidopsis属としている。また、分子系統学的研究からも9種が系統的に近縁であることを確かめている。これらの9種のうち、染色体数がn=5なのはシロイヌナズナのみで、他はn=8ー16と高い。

シロイヌナズナが遺伝子研究の材料として使われ始めてから、これまで分からなかった様々な遺伝子の機能が解明されるようになり、多くの重要な知見が得られている。特に1990年以降、シロイヌナズナを用いた研究は多様化し、様々な分野で多くの成果をもたらした。では一体全体、シロイヌナズナを実験植物として、自然界から選び出したのはどのような人であろうか。残念ながら、手元にオリジナルな文献がないが、E.M. Meyerowitzの総説によれば、Friedlich Laibach (1885-1967)であるようだ。

Laibachは1907年にシロイヌナズナの染色体数を5対と数えている。しかし、この頃は、染色体の特性を調べるために、数が少なくて大きい染色体をもつ植物を探していた。シロイヌナズナが研究材料として再び取り上げられたのは、1943年で、この時論文に、世代の短さ、多収性、交雑が容易であること、突然変異体を得る可能性など、シロイヌナズナの遺伝学材料としての利点を挙げている。Laibachの研究室では、X線による突然変異体を得ているが、これに関する研究は、1945年、彼の研究室の学生であるErma Reinholz の学位論文にまとめられた。この論文は、大戦後、ドイツの原子爆弾開発プログラムに関する調査を行っていた合衆国の軍部に注目され、1947年に未分類の押収文献として公表されたそうである。いずれにせよ、シロイヌナズナが優れた実験植物となり得ることにLaibachが気付かなければ、今日でも、シロイヌナズナは目立たない雑草に過ぎなかったかも知れず、そうであれば植物の遺伝子研究は大きく遅れていたに違いない。

参考文献
Al-Shehbar, I.A. and O'Kane, S.L.Jr. (2002) Taxonomy and Phylogeny of Arabidopsis (Brassicaceae).In CR Somerville, EM Meyerowitz, eds, The Arabidopsis Book. American Society of Plant Biologists, Rockville, MD, doi: 10.1199/tab.0001, www.aspb.org/publications/arabidopsis/

Arabidopsis Genome Initiative (2000) Analysis of the genome sequence of the flowering plant Arabidopsis thaliana. Nature 408: 796-815.

Meyerowitz, E.M. (2001) Prehistry and histry of Arabidopsis research. Plant Physiol. 125: 15-19.

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