季節はずれであるが、ヤブガラシについて書いてみよう。ヤブガラシ(ヤブカラシ)はビンボウカヅラともよばれ、どうやら昔から嫌われもののようだ。種子でも地下茎でも繁殖する蔓性の植物で、繁殖も成育も極めて旺盛であり、枝分かれした巻きひげ(茎が変形したもの)で触れたものに絡み付き、薮や灌木を覆いつくしてしまう。薮を枯らしてしまうというので、ヤブガラシという。ほんとうに薮を枯らすかどうかは知らない。おそらくヤブガラシはだれでもよく知っている植物であるが、特に関心をもつという人は少ないのではないかと思う。
しかし、よく見ると、おもしろい植物である。葉は複葉で、鳥足状複葉である。すなわち1枚の葉が5枚の小葉に分かれているが、中央の小葉は大きく、左右の小葉は、それぞれ1つの柄に2枚づつついている。このようなかたちの葉をもつものは少なく、ほかにアマチャヅルやコガネイチゴなどがある。鳥足状複葉は三出複葉の変形と考えられる。花穂は岐散する集散花序のかたちをとり、こまかく分かれたの枝の先端に初夏から夏に小さな花をつける。花はがくを欠き、花弁は4弁あるが、緑色でめだたない。最初に黄赤色、のちに淡紅色に見えるのは、花盤 (disc) とよばれる部分で花床の上にできる円盤状の組織である。秋には丸い実がなり、熟すと黒くなる。ヤブガラシはブドウ科だが、この黒い実は食べられないようだ。
ヤブガラシは、人に好かれる植物ではなさそうだが、私には思い入れがある。それは、若い頃に読んで、今もときどき読み返している西脇順三郎の詩集「旅人かへらず」のせいだと思う。「旅人かへらず」は、西脇54歳、終戦の2年後の昭和22年に刊行(東京出版)された168の短い詩からなる詩集であるが、168の断章からなる1つの長詩のようにも見える。「旅人かへらず」に限らず、西脇の詩は、どれも難解で、私のごとき散文的人間にはまともに解釈できるものではないが、「旅人かへらず」には、散歩で出会いそうな木や草が80種以上も出てくるので、詩の解釈はよく分からないながらも、それぞれの情景を想像しつつ読むと、いつの間にかこの詩の世界に引き込まれてしまうような気がするのである。しかも、詩の背景となる風景は、私にとってもなじみの武蔵野である。
とりあえず、「旅人かへらず」の冒頭部分だけ、ここに記す。この詩は、もちろん縦書きで、一行一行、行を換えねばならないが、このホームページのスタイルで、大変申し訳けないながら、横書きで、行を分けずに書いておく。
一 旅人は待てよ このかすかな泉に 舌を濡らす前に 考へよ人生の旅人 汝もまた岩間からしみ出た 水霊にすぎない この考へる水も永劫には流れない 永劫の或時にひからびる ああかけすが鳴いてやかましい 時々この水の中から 花をかざした幻影の人が出る 永遠の生命を求めるは夢 流れ去る生命のせせらぎに 思いを捨て遂に 永劫の断崖より落ちて 消え失せんと望むはうつつ さう言ふはこの幻影の河童 村や町へ水から出て遊びに来る 浮雲のかげに水草ののびる頃
二 窓に うす明りのつく 人の世の淋しき
三 自然の世の淋しき 睡眠の淋しき
四 かたい庭
五 やぶがらし
六 梅の樹脂 生命の脂 恋愛の脂 苦き古木のとがり 夏の宵の蓮の筆に 光をののく星空に 情を写して 憂しき思いの手紙を書く 永劫の思ひ残る
・・・以下、一六八まで。一六八の最後は、「・・・幻影の人は去る 永劫の旅人は帰らず」
この詩集の主役は、冒頭に出てくる「幻影の人」であろう。西脇はこの詩集の「はしがき」に、「幻影の人」とは、自分の心にひそむ、理知や情念では解決の出来ない割り切れない人間であり、「永劫の旅人」でもあると述べている。「幻影の人」は瞬間に来て、去って行く。この人間は、「原始人」以前の人間の奇跡的に残っている追憶だろう、という。
そして私にとって分かる気がするのは(見当違いかもしれないが)、「道ばたに結ぶ草の実に無限な思い出の如きものを感じさせるものは、自分の中にひそむこの『幻影の人』のしわざと思われる」という一節である。
上に示したように、この詩集の最初に出てくる植物は「やぶがらし」。この詩集を読んで以来、私は道ばたのヤブガラシの前で立ち止まるようになった。散歩を日課とするようになったこの数年間も、冬から早春のシーズンを除いて、散歩に出れば必ずと言っていいほど、ヤブガラシに出会う。ヤブガラシに陽気な印象はない。夏の盛りに花が咲いても、なおも沈黙を続けているような感じの植物である。西脇は、そんなヤブガラシを心に住む「幻影の人」に投影させたのであろうか。
ヤブガラシは、山野の植物ではなく、実際は人里の植物である。人里の手入れのよくない薮や垣根をひっそりと覆っている姿は、案外人恋しい植物なのかも知れない。それに、この植物にも温かさを感じる瞬間がある。この植物の花は、よく昆虫を惹きつけるのである。夏の盛り、黒っぽい緑の鳥足状の葉と、花をたくさんつけた花穂、そこにクロアゲハが訪れると、ちょっとした絵画的な情景になる。そのような情景は、頭に残像として残っているのだが、私の力量ではとても絵にならない。いつかはそんな絵を画いてみたいという夢はあるのだが。
(2007.12.18)
百人一首でおなじみの歌「やへ葎(むぐら)しげれる宿のさびしきに人こそ見えねあきは来にけり」は、平安中期の歌人、恵慶(えぎょう)法師の歌で、拾遺和歌集に収められている。「やへ葎」の歌は、百人一首の中で目立つものでないが、植物好き人間としては、素直に共感できる歌である。恵慶が秋のはじめに、安法法師が住んでいた河原院を訪れた際に読んだ歌で、拾遺集巻の三、百四十に、「河原院にて、あれたるやどに秋来といふ心を人々よくよみ侍りけるに 恵慶法師」と詞書されている。
河原院とは、嵯峨天皇の皇子で臣籍に下った源融(みなもとのとおる)が六条河原にたてた壮麗な邸宅で、源融は河原左大臣とよばれたとある。恵慶が「やへ葎」の歌を作ったのは、源融の死後1世紀近く経っており、安法法師が住んでいたころはまさに「やへ葎しげれる宿」であったであろう。「人こそ見えねあきはきにけり」人はだれも来ないけれど、秋はやってきたのだなあと歌っている。安法法師の住んでいたこの河原院は、恵慶をはじめ、当時の文人たちが集まるサロンのようなものであったと思われるので、「人こそ見えね」というのは当っていないように思えるが、その荒れた庭は、やはり「ひとこそ見えね」というような情景だったのであろう。
この歌に限らず、古典文学に現われる「やえむぐら」あるいは「むぐら」は、アカネ科のヤエムグラのことではなく、その場所に繁茂している雑草(多分つる性の)のことである。手入れの行き届かない庭を覆う雑草を「やえむぐら」とよんでいるのである。女「思ふ人来むと知りせば八重むぐら覆へる庭に玉敷かましを」、男「玉敷ける家も何せむ八重むぐら覆へる小屋(おや)も妹と居りてば」は万葉集に見える問答歌の一つである(万葉集 巻十一、作者不詳)。「八重むぐら」であるが故に、なまめかしい情景がことさらに想像される。
恵慶がみた「やえむぐら」群はどんな植物によって構成されているのだろうか。想像するに、日本に古来からあり、極めて旺盛な繁殖力をもつカナムグラが主役であろう。古典に現われる「やえむぐら」はカナムグラのことという記述もある。ヤエムグラそのものも生えているだろう。カナムグラやヤエムグラはよく日のあたる場所に多い。ヒルガオも日の光を好む植物である。薮になった場所にはヤブガラシ、アカネ、ヘクソカヅラ、サルトリイバラ、アオツヅラフジ、カラスウリなどがからみついているだろう。「やえむぐら」「むぐら」という言葉とともに、「葎生(むぐらふ)」という言葉が古典文学に出てくるが、これはむぐらの生い茂った状態をいう。気がついたことだが、つる性ではない植物群と異なり、つる草には外来種が比較的少なく、現代にも葎生があるとすれば、それを構成する植物は、平安時代の葎生とさして変わりないのではなかろうか。
近頃、このあたりの多くの家の庭は、和洋の花木、草花で美しく飾られている。散歩していても、「やへ葎しげれる宿」はとても見つかりそうもない。でもひょっとすると、そのうちに、どこか荒れた寺などに出会して、「やへ葎しげれる宿」の面影を見ることができるかもしれない。そんなことを期待している。
(2008.1.8)
「葎生(むぐらふ)」についてはすでに述べたが、「蓬生(よもぎふ)」という古語もある。ともに雑草の生い茂った状態をいうが、葎生のほうはカナムグラのようなつる性の雑草に覆われたような感じであり、蓬生の方は、ヨモギを主体とする雑草がその場所を覆いつくしているような感じである。ヨモギは通常人の歩かない場所に密に生え、放っておけば草丈1メートル以上にもなるから、そうなると人はそこに入って行きにくくなる。「いかでかはたづねきつらむ蓬ふの人もかよはぬわが宿のみち」(拾遺集 よみ人しらず)。
こんな「蓬生」のすがたをたくみに表出しているのは、源氏物語の「蓬生」の巻だと思う。「蓬生」は「末摘花(すえつむはな)」の後日談である。末摘花とは、常陸の親王(常陸宮)の末娘で、いたく寵愛されたが、常陸宮が他界したのちは、父から受け継いだ邸に住み、世間離れした融通のきかない性格から、父の代からつかえていた侍従(のちに末摘花を見捨てて邸を去る)や何人かの女房以外に世話する人もなく、精神的にも経済的にもわびしく日々を過ごしていた。「末摘花」「蓬生」には、いかにも時代離れした、古風な姫君の様子が書かれている。源氏(18〜19歳頃)は、大輔の命婦(たいふのみょうぶ)という女房の手引きで姫君に会うことになる。が、長い鼻の先端が赤いという異様な容貌に驚く。それでも源氏はこの身分の高い姫君の境遇をあわれに思い、その後世話することになる。末摘花とはこの姫君に与えられた名称で、ベニバナのこと。「末摘花」の巻の終結の部分は、一転して対照的に、10〜11歳の幼ない妻、紫上の美しく可愛らしい様子が晴れやかに書き出されている。
後日談「蓬生」は、右大臣側の策謀から、源氏が須磨に配流されていた頃から京に戻ったのちまでの話である。源氏28〜29歳の頃であるから、「末摘花」からすでに10年位経っている。ときどきは目をかけてくれる光源氏がいなくなってしまったので、末摘花の境遇は窮乏を深めてゆく。女房達はこの状況に堪え難く、次々にこの邸を去って行く。手入れされない庭は蓬生となってすさまじいかぎりである。邸には狐が住みつき、不気味な木立には梟がなき、木霊(こだま)などという怪物が姿を現す。その情景を紫式部は次のように画く。「浅茅(あさじ)は、庭の面(おも)も見えず、しげき蓬(よもぎ)は、軒を争ひて生(お)ひのぼる。葎(むぐら)は西・東の御門(みかど)を閉じこめたるぞ、たのもしけれど、崩れがちなる垣を馬・牛などの踏みならしたる、道にて、春・夏になれば、(牛馬を)はなち飼う総角(あげまき)の心さへもめざましき」。
卯月(旧暦4月)のある夕方、源氏は花散里(源氏の女性の一人、麗景殿女御の妹)を訪ねるべく、侍臣の惟光をつれておしのびで出た。その折、「形(かた)もなく荒れたる家の木立繁く、森のやうなるを過ぎたまふ」ことになった。「大きなる松に、藤の咲(さ)きかかりて、月影に靡きたる。風につきて、さと匂ふがなつかしく、そこはかとなき薫りなり。橘には変はりて、をかしければ、さしいで給へるに、柳もいたうしだりて、築地にもさはらねば、乱れふしたり」。これまで音信の絶えていた末摘花のことが気になり、源氏は惟光に様子をさぐらせる。その報告を受けて、源氏は末摘花と再会する。以後、源氏はふたたび末摘花の面倒をみることになり、離れた女房たちも立ち戻り、蓬生の庭も風情ある庭に改修された。読み通してみると、蓬生という環境的背景が、この物語に立体的な構造を与え、この物語の進行を際立たせていることが強く感じられる。
ヨモギは在来種で、よく知られたキク科の雑草である。キク科だけれども、花は風媒花に進化したため、虫を引きつけない。したがって、多量の花粉を空中に散布するべく、非常に多数の花をつける。キク科であるから、複数の花が総苞につつまれて頭状花になっている。9〜10月頃、ヨモギは長い花穂にびっしりとついた頭状花を開花させる。頭状花は総苞に囲まれた雌花と両性花からなり、両性花は一斉に花粉を放出する。受粉すれば雌花も両性花も実をむすぶ能力をもっている。ヨモギは種子によって繁殖するが、一方では地下茎を伸ばして群落をつくる。根から他の植物の種子の発芽を抑制する物質を分泌し、この能力(アレロパシー)を自らの繁殖に役立てている。
ヨモギ属 (Artemisia)植物は北米やヨーロッパにもさまざまな種があるが、ヨモギそのもの(A. indica Willd. var. maximowiczii (Nakai) H. Hara) は、本州、四国、九州と朝鮮半島に局在している。上述のように、繁殖が旺盛でアレロパシーをもつので、やっかいな畑地の雑草である。紫式部の時代には、外来の雑草は今よりずっと少なかったろうから、ヨモギは荒れ地を覆う主な雑草であったことが容易に想像される。それが、蓬生という語ができた所以かもしれない。
しかし、一方では、ヨモギは春、その香りのゆえに、古来から日本人に親しまれた植物でもある。「節(せち)は五月にしく月はなし。菖蒲(さうぶ)、蓬(よもぎ)などのかをりあひたる、いみじうをかし。九重(ここのへ)の御殿の上をはじめて、言ひ知らぬ民のすみかまで、いかで、わがもとにしげく葺(ふ)かむと、葺きわたしたる、なほいとめづらし。いつかは、異(こと)をりに、さはしたりし」(枕草子)。5月5日の節句には、菖蒲や蓬を刈り取って、家の軒に飾ったようである。たぶん、家々はヨモギの香りに満ちあふれていたことであろう。こんな習慣は残っていないけれど、今、ヨモギの香りは草餅に封じ込められて、春の味覚として、われわれを楽しませてくれる。
こんなことを書いていたら、日本古来の雑草であるヨモギに愛着心が湧き、ヨモギ萌える春が待ち遠しくなった。最後に蕪村の句、「裏門の寺に逢着す蓬かな」。
(2008.1.30)