鎌倉幕府をまもった尼将軍(あましょうぐん)

  北条政子 (ほうじょう まさこ) 
● 活やくした時代   1157年〜1225年
                平安〜鎌倉時代

● 活やくしたこと

  1157年 伊豆(いず)の有力な武士の北条時政(ほうじょう ときまさ)の長女として生まれる。

  1159年 
平治の乱(へいじのらん)がおこる。
           藤原氏(ふじわらし)の戦いに、平清盛(たいらの きよもり)と源義朝がまきこまれる。
           平清盛にやぶれ、父 源義家は殺される。
           源頼朝はとらえられ、池禅尼(いけのぜんに)(平清盛の継母)に助けられる。 

  1160年 源頼朝は静岡県の伊豆(いず)に流される。

  1177年 伊豆に流されていた源頼朝(みなもとの よりとも)と結婚する。

  1180年 以仁王(もちひとおう)の「平氏をうて」の命令をうけ、源頼朝が兵をあげる。

  1182年 長男の源頼家(みなもとの よりいえ)が生まれる。

  1185年 壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)で平氏がほろぶ。

  
1192年 次男の源実朝(みなもとの さねとも)が生まれる。
         源頼朝が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となる。

  1199年 源頼朝が死ぬ。髪(かみ)を切って、尼(あま)になる。
         源頼家が2代将軍になる。

  1203年 源頼家を出家させ、伊豆の修禅寺(しゅぜんじ)にとじこめる。
         源実朝を3代将軍にする。

  1204年 源頼家が、北条時政(ほうじょう ときまさ)に暗殺される。

  1205年 北条時政の源実朝の暗殺計画を知り、源実朝を救い出す。
         北条政子の弟の北条義時(ほうじょう よしとき)を執権(しっけん)にする。

  1219年 源実朝が公暁(くぎょう)(源頼家の子)に殺害される。→ 源氏の直系がたえる。
         京都からの藤原頼経(ふじわらの よりつね)を4代将軍にする。
         尼将軍として、鎌倉幕府の政治を動かす。

  1221年 
承久の乱(じょうきゅうのらん)
         
          
【承久の乱(じょうきゅうのらん)】
            朝廷が鎌倉幕府から政権をとりもどそうとした戦争
              [ 朝 廷 ]    対    [ 鎌倉幕府 ]
              後鳥羽上皇         執権 北条義時
                                   北条政子
                                   ↓
                               鎌倉幕府の勝利
         
              ↓
          後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が天皇の権力を取りもどうそうとして、
          「鎌倉幕府をうて」という命令を出す。
              ↓
          尼将軍 北条政子の「源頼朝公のご恩をわすれてはならない・・・。」の言葉で、
          武士たちは鎌倉幕府に忠誠をちかい、京都へ攻めこむ。
              ↓
          鎌倉幕府が勝利する。

  1225年 死 去(69才)


● 人 物 評

 北条政子(ほうじょう まさこ)にとって、鎌倉幕府は夫 源頼朝ともにつくりあげた家であったのであろう。その家を守るために、北条政子は必死に苦心した。その結果が、2人の息子(源頼家、源実朝)の死であった。それは、あまりにも大きな犠牲(ぎせい)であった。しかも、その暗殺の背後には、父の北条時政(ほうじょう ときまさ)がいた。承久の乱(じょうきゅうのらん)での北条政子の言葉には、源頼朝とともにつくりあげ、2人の息子までも犠牲にしたこの幕府をこわしてはならないと言う決心を感じることができる。北条政子の功績は、執権(しっけん)による鎌倉幕府の安定をつくりあげた点であろう。


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