文明開化の指導者 福沢諭吉 (ふくざわ ゆきち) |
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● 活やくした時代 1834年〜1901年 江戸〜明治時代 ● 活やくしたこと 1834年 中津藩(なかつはん 大分県)の下級武士の福沢百助(ふくざわ ひゃくすけ) の次男として、大阪で生まれる。 ↓ 百助は学問があり、すぐれた人物であったが、身分制度のため、武士でも 出世することができなかった。 ↓ 「身分制度は親の敵(かたき)である」と福沢諭吉が考えるきっかけになる。 1836年 父の百助が死に、福沢諭吉が大阪から中津に帰る。 1854年 福沢諭吉が兄の三之助(さんのすけ)とともに長崎にでて蘭学(らんがく)を学ぶ。 蘭学(らんがく)…オランダから伝わった学問 1855年 福沢諭吉が大阪に出て、緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾(てきじゅく)で蘭学 を学ぶ。 ↓ 死にものぐるいで勉強し、やがて、塾長(じゅくちょう)になる。 1858年 福沢諭吉が江戸で蘭学(らんがく)の塾を開く。 1859年 横浜を見物して、外国人にオランダ語で話しかけるが、まったく話が通じないため、 ショックを受ける。 ↓ これからは英語が必要であることを知り、英語の勉強を始める。 1860年 福沢諭吉が江戸幕府の軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」でアメリカに行く。 1861年 福沢諭吉が江戸幕府の通訳(つうやく)としてヨーロッパ諸国へ行く。 ↓ 「西洋事情(せいようじじょう)」を発行する。 日本人にヨーロッパの文化を紹介する。 1864年 福沢諭吉が江戸幕府の翻訳御用(ほんやくごよう)になる。 1867年 福沢諭吉が軍艦を受け取るため、再び、アメリカに行く。 1868年 福沢諭吉が慶応義塾(けいおうぎじゅく 今の慶応義塾大学)を開く。 1872年 福沢諭吉が「学問のすすめ」を発行する。 「学問のすすめ」 「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず…」ではじまる ↓ 340万部以上が売れ、国民の10人に1人が読むというベストセラーになる。 1878年 福沢諭吉が東京府会議員になる。 東京学士会院(とうきょうがくしかいいん 今の日本学士院)の初代会長になる。 1882年 「時事新報(じじしんぽう)」を発行する。 1901年 病死(68才) ● 人 物 評 福沢諭吉が、初めてアメリカやヨーロッパの文化を見た時には、大きな驚きを感じたに違いない。日本の江戸とはまったくちがう文化、夜の町に輝く街灯(がいとう)、物を速く運ぶ蒸気機関車、石造りの家など…。すべての物が初めて見た物ばかりであったであろう。福沢諭吉のすごいところは、この近代文化を日本の人々に紹介し、日本の文化の進むべき道を指し示したことであろう。そして、教育者として、慶応義塾(けいおうぎじゅく)をつくり、これからの先の日本を背負って立つ若者を育てていこうとしたことであろう。このように見てくると、福沢諭吉は、文明開化の指導者といえるだろう。 |