江戸幕府の危機に勇敢(ゆうかん)に立ち向かった大老 井伊直弼 (いい なおすけ) |
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● 活やくした時代 1815年〜1860年 江戸時代 ● 活やくしたこと 1815年 彦根藩(ひこねはん 滋賀県)の藩主の井伊直中(いい なおなか)の14男 として生まれる。 1831年 父の井伊直中がなくなる。 次の藩主にきらわれ、城下の小さい家の移される。 その家を埋木舎(うもれぎのや)とつける。 埋木舎で井伊直弼は茶道、国学、剣術などの勉強にはげむ。 1846年 子どものない藩主の井伊直亮(いい なおあき)の養子になる。 1850年 井伊直亮の死とともに、彦根藩主になる。 1853年 アメリカのペリーが軍艦を率いてくる。 1854年 日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)を結ぶ。 1857年 井伊直弼が徳川家茂(とくがわ いえもち)を将軍におす。 1858年 徳川家茂(とくがわ いえもち)が14代将軍なる。 井伊直弼が大老(たいろう 将軍を助ける最高臨時職)になる 幕府が日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を結ぶ。 井伊直弼が安政の大獄(あんせいのたいごく)で徳川慶喜(とくがわ よしのぶ) を隠居(いんきょ)させる。 尊皇攘夷派(そんのうじょういは)の吉田松陰(よしだ しょういん)や橋本左内 (はしもと さない)など100人を処刑する。 1860年 桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)がおこる。 大老の井伊直弼が桜田門(さくらだもん)で暗殺される。(46才) ● 人 物 評 井伊直弼(いい なおすけ)は、くずれ続ける江戸幕府を必死で立て直そうとした人物である。今の幕府には外国と戦争する力はなく、外国との貿易で力をたくわえていくしかないと考え、日本を開国したのである。だが、外国の強さを知らない尊皇攘夷派(そんのうじょういは)は、開国に反対し幕府をほろぼそうと動き始めるのである。井伊直弼は日本を二分(開国派と攘夷派)しないために、尊王攘夷派(そんのうじょういは)の処刑にふみきるのである(安政の大獄)。これは、井伊直弼にとって、苦渋(くじゅう)の選択であったに違いない。だが、井伊直弼の誤算は幕府の権力の予想以上の低下であった。昔であれば、幕府の一喝(いっかつ)で大名はしたがっていたが、この時代には、幕府の一喝は幕府へのいっそうの反抗心をあおることになった。井伊直弼は桜田門で暗殺され、やがて幕府もほろぼされるが、結局、井伊直弼が考えた通り、日本は開国の道を歩みつづけることになる。 |