日本最初の実測(じっそく)地図の作製者 伊能 忠敬 (いのう ただたか) |
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● 活やくした時代 1745年〜1818年 江戸時代(えどじだい) ● 活やくしたこと 1745年 上総(かずさ 千葉県)の農家に生まれる。 1762年 下総(しもうさ 千葉県)の佐原村(さわらむら)の大地主の伊能家(いのうけ) の養子となる。 1783年 天明(てんめい)の大飢饉(だいききん)が起こる。 伊野忠敬は米を買い入れて、困っている人を助ける。 1794年 家業(かぎょう)を長男の伊能景敬(いのうかげたか)にゆずり、隠居(いんきょ) する。 1795年 伊野忠敬が江戸に出る。 伊能忠敬が幕府天文方(ばくふてんもんがた)の高橋至時(たかはしよしとき)の 弟子になる。 ↓ 暦学(れきがく)、天文学、測量学(そくりょうがく)を学ぶ。 ↓ 伊能忠敬の情熱と根気強さから推歩(すいほ)先生と呼ばれる。 【推歩(すいほ)】 天体の位置の計算をすること。 この当時、この計算はめんどうで根気がいる作業であった。 1800年 伊能忠敬が蝦夷地(えぞち 北海道)の測量に出発する。 【蝦夷地(えぞち)の測量の理由】 このころ、ロシアの船が蝦夷地(えぞち)にたびたび現れるよう になり、江戸幕府は北の守りを固める必要があり、そのために は正確な地図が必要だった。 1802年 伊能忠敬が東北地方などを測量する。 1803年 伊能忠敬が北陸、東海地方の測量をする。 1804年 師の高橋至時(たかはしよしとき)が死ぬ。 伊能忠敬が天文方(てんもんがた)を手伝う役人に取り立てられる。 本州の東半分の地図をつくる。 1805年 伊能忠敬が中国地方の測量をする。 1808年 伊能忠敬が四国地方の測量をする。 1811年 伊能忠敬が九州地方の測量をする。 1816年 伊能忠敬が江戸の周辺を測量する。 【地球を一回り歩く】 伊能忠敬は16年におよぶ測量で、4万3000km以上の距離 を歩き通したことになる。ぞの距離は、地球を一回り以上歩いた 距離となった。 1818年 死亡する。(74才) 1821年 伊能忠敬の弟子(でし)によって日本地図が完成する。 ● 人 物 評 伊能忠敬の熱意には感心させられる。16年間も日夜、歩き続けて測量を行うなどという根気と粘(ねば)り強さが今の現代人にあるであろうか。どんなことをしてでも日本地図をつくるという信念がなければ、この偉大な作業はなしとげられなかったであろう。江戸時代の末にやってきたイギリス人の測量隊は、幕府が出した伊能地図を見て、その精密さにおどろいたという。伊能忠敬が作りあげた日本地図は、現代の日本地図と比べてもひけをとらないものである。伊能忠敬の測量技術と信念に敬意をあらわしたい。 |