源氏の東国支配の基礎を築いた武将 源義家 (みなもとのよしいえ) ※八幡太郎(はちまんたろう)ともよばれる。 |
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● 活やくした時代 1039年〜1106年 平安時代 ● 活やくしたこと 1039年 源頼義(みなもとのよりよし)の長男として南河内(みなみかわち 大阪府)で生まれる。 1045年 元服(げんぷく)して、八幡太郎(はちまんたろう)となのる。 1051年 前九年の役(ぜんくねんのえき)がおこる。 父の源頼義(みなもとのよりよし)とともに戦う。 【前九年の役(ぜんくねんのえき)】 陸奥(むつ 東北地方)の豪族(ごうぞく)の阿部頼時(あべのよりとき)、阿部貞任 (あべのさだとう)が朝廷に対して反乱を起こした事件。源義家と源頼義(みなもとの よりよし)が清原武則(きよはらのたけのり)の助けを借りて阿部氏を倒した。 1057年 源義家が黄海(きのみ)の戦いで奮戦(ふんせん)する。 1062年 源義家と源頼義(みなもとのよりよし)が阿部貞任(あべのさだとう)を破り、 前九年の役が終わる。 1063年 源義家が出羽守(でわのかみ 山形県と秋田県)になる。 1083年 源義家が陸奥守(むつのかみ)と鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)になる。 源義家が清原家衡(きよはらのいえひら)を攻める。 ↓ 後三年の役(ごさんねんのえき)が始まる。 ↓ 【前三年の役(ごさんねんのえき)】 陸奥(むつ 東北地方)の豪族(ごうぞく)の清原氏(きよはらし)の一族の 争いを源義家がしずめた事件。前九年の役(ぜんくねんのえき)で功績のあった 清原武則(きよはらのたけのり)の孫の清原家衡(きよはらのいえひら)と一族の 清原清衡(きよはらのきよひら)が対立して争いとなった。源義家は清原清衡 (きよはらのきよひら)に味方をして清原家衡(きよはらのいえひら)を滅ぼし、 争いをしずめた。 ※ 清原清衡はのちに藤原清衡(ふじわらのきよひら)と名を改める。 【雁(かり)の乱れと伏兵(ふくへい)】 源義家の軍が沼地まできたとき、雁(かり)が群れをなして空を飛んでいた。 ところが、雁(かり)が沼地の上にくると雁(かり)の群れが乱れた。源義家は、 沼地に敵の伏兵(ふくへい 見えないように隠れた兵のこと)がいることに 気づき、先に敵の兵に矢を射て敵を破ることができた。このようにして、源 義家は雁(かり)のおかげで危うく敵の攻撃から逃れることができた。 1087年 源義家の弟の新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)が援軍(えんぐん)を率いて 助けにくる。 ↓ 後三年の役(ごさんねんのえき)が終わる。 ↓ 朝廷から恩賞(おんしょう ほうびのこと)が出ないため、源義家は、自分の財産を 部下に分け与えた。 ↓ 東国の武士たちは源義家に忠誠(ちゅうせい)を誓う(ちかう)ようになる。 1106年 死去(68才) ● 人 物 評 源義家は源氏の頭領(とうりょう)としての資格をそなえた大物であったようだ。前九年の役(ぜんくねんのえき)も後三年の役(ごさんねんのえき)とも京都から遠く離れた東北の地でおこった。当然、武士たちは飢え(うえ)と寒さに悩まされることになる。そんな兵士を源義家は一人一人抱きしめ、あたため、励ましたという。また、後三年の役が清原氏の同族の争いで朝廷とは何の関係もないため、恩賞(おんしょう ほうびのこと)が出ないとなったときには、自分の財産を部下に分け与えたという。この勇猛で人情にあふれる人物だからこそ、多くの武士たちは源義家に忠誠を誓ったのであろう。このことが、後に源頼朝(みなもとのよりとも)の命を救い、鎌倉に幕府を開く基礎となったともいえるだろう。 |