天保(てんぽう)の改革を行った指導者 水野忠邦 (みずの ただくに) |
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● 活やくした時代 1794年〜1851年 江戸時代 ● 活やくしたこと 1793年 水野忠邦が唐津藩(からつはん 佐賀県)の大名の子として江戸で生まれる。 1812年 水野忠邦が唐津藩(からつはん)の藩主になる。 1817年 水野忠邦が浜松(静岡県)へ国がえになる。 水野忠邦が寺社奉行(じしゃぶぎょう)になる。 1825年 水野忠邦が大阪城代(おおさかじょうだい)になる。 1826年 水野忠邦が京都所司代(きょうとしょしだい)になる。 1828年 水野忠邦が江戸城の西丸(にしのまる)老中(ろうじゅう)になる。 1834年 水野忠邦が本丸(ほんまる)老中に出世する。 1839年 水野忠邦が老中の首座(しゅざ まとめ役、老中の最高位のこと)になる。 天保の大ききんがおこる。 ↓ 打ちこわしや百姓一揆(ひゃくしょういっき)が度重なる。 ↓ 幕府は毎年60万両もの赤字を出し続けていた。 ↓ 1841年 水野忠邦が天保(てんぽう)の改革を始める。 ● ぜいたく禁止令を出す ● 株仲間(かぶなかま)の解散令を出す。 ● 鳥居甲斐守忠耀(とりいかいのかみただてる)を江戸南町奉行にし、 きびしくとりしまる。 1843年 水野忠邦が印旛沼(いんばぬま)の干拓(かんたく うめたてて田畑をつくること) を行う。 水野忠邦が上知令(あげちれい)を出す。 【上知令(あげちれい)】 江戸と大坂の周辺の土地を江戸幕府が直接おさめる領地に しようとした。江戸幕府の経済力と軍事力を強めるため ↓ 老中や大名、旗本の反対にあい、「上知令(あげちれい)」を取り下げる。 ↓ 水野忠邦が老中をやめさせられる。 1844年 水野忠邦が再び老中となる。 1845年 水野忠邦が老中を辞職(じしょく)する。 ↓ あまりにきびしいとりしまりで民衆のにくしみ買って、屋敷をおそわれる。 ↓ 水野忠邦が謹慎(きんしん)させられる。 1851年 病死する。(58才) ● 人 物 評 水野忠邦は、江戸幕府になって3回目の改革を行った人物である。水野忠邦が老中になったとき、江戸幕府の財政はどん底におちいっていた。財政を立て直すためには、収入を増やすか支出を減らすかしかない。収入を増やすために印旛沼(いんばぬま)の干拓(かんたく)を行ったが、これは失敗に終わる。支出を減らすためにぜいたくを禁止したが、これも民衆の反感を買って失敗に終わる。水野忠邦に改革の意気込みはあったが、時代の流れには勝てなかったというところか・・・。水野忠邦が徳川吉宗(とくがわよしむね)のように将軍であったならば、この改革も少しは変わっていたかもしれない。 |