日本外交の基礎をつくった人物 陸奥宗光 (むつ むねみつ) |
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● 活やくした時代 1844年〜1897年 江戸〜明治(めいじ)時代 ● 活やくしたこと 1844年 紀伊藩(きいはん 和歌山県)の藩士伊達宗広(だて むねひろ)の六男として 生まれる。 1858年 陸奥陽之助の名前で江戸に出て、尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に加わる。 尊王攘夷(そんのうじょうい)運動 天皇を敬い大切にし、外国を日本から打ちはらおうとする運動 1867年 陸奥宗光が坂本龍馬の海援隊(かいえんたい)に入る。 大政奉還(たいせいほうかん) 江戸幕府が政権を朝廷にかえす。 王政復古を宣言する。 天皇中心の政治を行う。 1868年 陸奥宗光が外国事務局御用係(がいこくじむきょくごようがかり)になる。 1871年 陸奥宗光が神奈川県の県令(けんれい 県知事のこと)になる。 1872年 陸奥宗光が地租改正局長(ちそかいせいきょくちょう)になる。 1874年 薩摩藩(さつまはん 鹿児島県)、長州藩(ちょうしゅうはん 山口県)出身の役人が 明治政府で自分勝手な政治をすることにおこり、役人を辞職する。 1875年 陸奥宗光が再び明治政府にもどり、元老院議官(げんろういんぎかん)になる。 1878年 陸奥宗光が反政府運動に加わった罪で禁固(きんこ)5年の刑をうける。 1883年 許され、伊藤博文に才能を認められ、ヨーロッパに3年間留学する。 ↓ 帰国すると、外務省に入り、外交官になる。 ↓ 陸奥宗光が中米公使(ちゅうべいこうし)になる。 ↓ 陸奥宗光が第1次山県内閣の農商務大臣になる。 1892年 陸奥宗光が第二次伊藤内閣の外務大臣になる。 1894年 陸奥宗光がイギリスとの不平等条約の改正(治外法権の撤廃)に成功する。 治外法権(ちがいほうけん) 日本に裁判権(さいばんけん)がなく、日本で外国人が犯罪をおかしても、 日本が外国人をさばけないということ 日清戦争がおこる。 ↓ 1895年 日清戦争で日本が勝つ。 ↓ 陸奥宗光が伊藤博文とともに下関(しものせき)で清帝国と下関条約を結ぶ。 下関条約 1 朝鮮は独立国である。 2 遼東半島(りょうとうはんとう)、台湾(たいわん)を日本にゆずる。 3 賠償金として3億円を日本にゆずる。 ↓ ロシア、ドイツ、フランスによる三国干渉(さんごくかんしょう)にあい、遼東半島 (りょうとうはんとう)を清国(しんこく このころの中国の王朝)に返す。 ↓ 国民から弱ごしとののしられるが、陸奥宗光は自分の行動は正しかったと信じる。 1897年 病死する。(54才) ● 人 物 評 陸奥宗光の最大の功績は、明治政府にとって最大の問題であった不平等条約の1つの改正に成功したことであろう。治外法権(ちがいほうけん)とは、日本で外国人が犯罪をおかしても、日本の裁判でさばけないというものであった。どう考えても、常識はずれな条約であるが、江戸幕府のころは、外国の軍事力に圧倒され、言うがままであったのであろう。陸奥宗光にとって、道理の通らないことは許すことができなったのであろう。ただ、この後、明治政府は朝鮮(韓国)に日本との不平等条約を押しつけることになる。外国が日本にした不平等条約を、今度は日本が朝鮮に押しつけたのである。この時、陸奥宗光は病死していたが、もし、このことを知ったら、どのように思ったのであろうか?間違ったことのきらいな陸奥宗光は大反対したことであろう。 |