最後の元老(げんろう) 西園寺公望 (さいおんじ きんもち) |
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● 活やくした時代 1849年〜1940年 江戸〜昭和時代 ● 活やくしたこと 1849年 公家(くげ)の徳大寺公純(とくだいじ きんいと)の次男として京都に生まれる。 1852年 西園寺家(さいおんじけ)の養子になり、西園寺家をつぐ。 1861年 西園寺公望が宮中(きゅうちゅう)に入り、御近習(ごきんじゅう)となる。 1867年 西園寺公望が、参与(さんよ)となる。 明治天皇が即位(そくい)する。 大政奉還(たいせいほうかん)が行われる。 江戸幕府が政権を朝廷にかえす。 王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)がおこる 1868年 戊辰(ぼしん)戦争がおこる。 西園寺公望が、山陰道鎮撫総督(さんいんどうちんぶそうとく)、北陸道鎮撫総督 (ほくりくどうちんぶそうとく)として江戸幕府軍と戦う。 ↓ 西園寺公望が越後府(えちごふ 新潟県のこと)の知事になる。 1870年 西園寺公望がフランスに留学する。 ソルボンヌ大学などで自由主義を学ぶ。 ↓ 1880年 西園寺公望が日本に帰国する。 1881年 西園寺公望が東洋自由新聞社をつくり、社長となる。 ↓ 西園寺公望が自由民権運動に参加する。 ↓ 公家の西園寺公望が自由民権運動に参加したために明治政府が大変あわてる。 西園寺公望が明治天皇の命令で、東洋自由新聞社の社長をやめさせられる。 1882年 西園寺公望が憲法を作成するために伊藤博文とヨーロッパに行く。 1885年 西園寺公望がオーストリア公使になる。 1887年 西園寺公望がドイツ公使になる。 1894年 西園寺公望が伊藤内閣の文部大臣になる。 1903年 伊藤博文と政友会(せいゆうかい)を結成し、政友会の総裁(そうさい)となる。 1906年 西園寺公望が内閣総理大臣になる。 1911年 西園寺公望が2回目の内閣総理大臣となる。 ↓ 軍事予算をへらしたため、軍部と対立する。 1914年 第1次世界大戦が起こる。 日本は連合国軍としてアジア方面で戦いに参加し、勝利する。 ↓ 1919年 西園寺公望が第1次世界大戦のパリ講和会議(こうわかいぎ)に日本の首席全権 大使となる。 ↓ 日本の国際的地位が向上する。 1920〜1925年ごろ 西園寺公望が元老として軍部の進出をおさえ、立憲政治(りっけんせいじ) を守る立場をとり続ける。 1940年 病死(92才) ● 人 物 評 西園寺公望(さいおんじ きんもち)は、日清戦争(にっしんせんそう)、日露戦争(にちろせんそう)、第1次世界大戦などを通して、軍部の力がしだいに大きくなり、政治に口を出していく様子をまざまざと見てきたのであろう。若いころのフランス留学で、自由主義を学んでいた西園寺公望にとって軍部の勢力が大きくなることは、立憲政治(りっけんせいじ)の危機であり、自由主義の危機に見えたことであろう。西園寺公望は自分が軍部の力をおさえ、立憲政治を守る最後の防波堤(ぼうはてい)と思っていたのではないだろうか。5・15事件で首相の犬養毅(いぬかい つよし)が軍人に殺害され、政党政治が終わり、軍部の独裁(どくさい)が始まろうとしている様子を西園寺公望はどのような思いで見ていたのであろうか。西園寺公望の功績は、軍部の力をおさえ、立憲政治を守り抜こうとした点であろう。 |