蝦夷(えぞ)を征討(せいとう)した征夷大将軍(せいいたいしょうぐん) 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ) |
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● 活やくした時代 758年〜811年 奈良時代 ● 活やくしたこと 758年 坂上刈田麻呂(さかのうえのかりたまろ)の子として生まれる。 【坂上田村麻呂のすがた】 身長5尺8寸(1.76m) 体重201斤(120kg) 顔の色は赤みを帯び、目は鷹のようにするどく、ひげは黄金の糸の ようにバリバリしている。 怒ると猛獣(もうじゅう)をたちまち倒し、笑うと赤ん坊もよくなつく。 770年 坂上刈田麻呂(さかのうえのかりたまろ)が陸奥鎮守府将軍 (むつちんじゅふしょうぐん 岩手県)となる。 791年 坂上田村麻呂が征東副使(せいとうふくし)の一人に任命される。 794年 都が平安京(京都)に移される。 796年 坂上田村麻呂が出羽(でわ)の按察使(あぜち)と陸奥守(むつのかみ)を兼ねる。 さらに、鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)も兼ねるようになる。 ↓ 入植(にゅうしょく)のため関東や北陸の民衆5000人を伊治城(いじじょう 宮城県) に移す。 ↓ 朝廷の政治になれた民衆となれていない民衆とを慣れ親しませる。 (武力だけによる支配ではなく、文化などによる感化を目的とする。) 797年 坂上田村麻呂が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になる。 801年 蝦夷(えぞ)最大の根拠地、胆沢(いさわ 岩手県)の攻略に成功する。 802年 胆沢城(いさわじょう 岩手県)を築く。 坂上田村麻呂が降伏(こうふく)した蝦夷(えぞ)の首領2人をつれて都に帰る。 803年 志波城(しわじょう 岩手県)を築く。 805年 清水寺の寺地(じち)をたまわる。 811年 粟田(あわた)の別宅で病死する。(54才) 【都を守る坂上田村麻呂】 坂上田村麻呂は、「私が死んだときは、体に鎧(よろい)と甲(かぶと) をつけ、手には太刀(たち)をにぎらせ、立ったまま埋葬してほしい。 そして、御所の見えるところにうめてほしい。いつでも御所を守って いたいから…。」と遺言したと伝えられている。実際にその通りに 埋葬された。 後に、国家に大事が起きたときには、この墓が雷鳴のようにゆれ 動いたと伝えられる。また、朝廷から将軍の号をうけた者が出征 (しゅっせい)するときには、この墓に行き、戦勝を願うということである。 ● 人 物 評 坂上田村麻呂は蝦夷(えぞ)を征討(せいとう)した将軍として有名であるが、武力ばかりの人物ではなかった。実際、桓武天皇(かんむてんのう)に「武力で一時的に治めることはできても、しばらくすると反乱が起こることになる。蝦夷(えぞ)の民衆が我々と同じような文化の生活習慣になるようにしていくことが大切である。」と進言している。実際、坂上田村麻呂は蝦夷(えぞ)の民衆に優しく接し、とらえた蝦夷(えぞ)の首領2人を処刑することを最後まで反対したという。坂上田村麻呂は、朝廷の蝦夷(えぞ)支配を確立した人物といえるだろう。 |