院政(いんせい)を初めて行った天皇 白河天皇 (しらかわてんのう) ※ 白河上皇 (しらかわじょうこう) 白河法皇(しらかわほうおう)ともいう |
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● 活やくした時代 10534年〜1129年 平安時代(へいあんじだい) ● 活やくしたこと 1053年 後三条天皇(ごさんじょうてんのう)の第1皇子として生まれる。 名を貞仁親王(さだひとしんのう)という。 1069年 貞仁親王(さだひとしんのう)が皇太子(こうたいし 次に天皇になる皇子のこと)になる。 藤原氏と関係の深い皇子を天皇にすることができない。 ↓ 摂政(せっしょう)や関白(かんぱく)になって権力をにぎっていた 藤原氏がおとろえ始めていた。 1072年 貞仁親王(さだひとしんのう)が後三条天皇の後をついで白河天皇(しらかわてんのう) になる。 1086年 白河天皇の息子の善仁親王(よしひとしんのう)に天皇の位をゆずる。 ↓ 善仁親王(よしひとしんのう)が堀川天皇(ほりかわてんのう)になる。 ↓ 白河天皇は上皇(じょうこう)となり、院庁(いんちょう)で院政(いんせい)を始める。 ↓ 白河上皇の43年におよぶ院政が始まる。 1095年 白河上皇が院庁の警備(けいび)をするために北面(ほくめん)の武士をおく。 ↓ 北面の武士となった源氏(げんじ)や平氏(へいし)が力を持つようになる。 1096年 白河上皇が出家(しゅっけ 僧になること)して、白河法皇(しらかわほうおう)になる。 ↓ 白河法皇(しらかわほうおう)が法勝寺(ほっしょうじ)などの寺や仏像などをつくり、 寺院を大切に保護するようになる。 ↓ 逆に寺院の勢力が強くなり、朝廷をおどすようになる。 1107年 堀河天皇(ほりかわてんのう)が亡くなり、鳥羽天皇(とばてんのう)が位につく。 白河法皇が引き続き院政(いんせい)を行う。 1113年 延暦寺(えんりゃくじ)や興福寺(こうふくじ)の僧が白河法皇の院庁におしかけ, 要求を押し通そうとする。 1123年 鳥羽天皇(とばてんのう)が亡くなり、崇徳天皇(すとくてんのう)が位につく。 白河法皇が引き続き院政(いんせい)を行う。 1129年 死去(77才) ● 人 物 評 白河天皇は後三条天皇(ごさんじょうてんのう)の後をついで、政治の中心から藤原氏を しめだすことに成功した。これによって、藤原氏の勢力はおとろえていくことになる。逆に、白河天皇はそれ以後の2代の天皇(43年)にわたって、自分が政治の実権(じっけん)をにぎり、思うがままの政治(院政 いんせい)を行うことになる。天皇が政治を行うのではなく、天皇ををやめた上皇(じょうこう)が政治を行ったはじめての人物である。また、北面の武士をおき、白河天皇が武士と結びつくことで源氏(げんじ)や平氏(へいし)が力を持つようになる。これは、天皇や貴族の政治から武士の政治への道しるべをつくることになった。これ以後、どんどん武士が政治に参加するようになり、貴族時代である平安時代が終わり、武士の時代で鎌倉時代をむかえることになる。 |