飛鳥時代の朝廷の実力者 蘇我馬子 (そがのうまこ) |
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● 活やくした時代 ?〜626年 飛鳥時代(あすかじだい) ● 活やくしたこと ? 年 蘇我馬子が蘇我稲目(そがのいなめ)の子として生まれる。 蘇我馬子は武略や才知にすぐれていて、すぐに朝廷でその能力を 認められるようになる。 538年 百済(くだら)より仏教が伝わる。 蘇我馬子が仏教を受け入れるか受け入れないかで物部守屋(もののべのもりや) と対立する。 蘇我馬子 … 仏教受け入れ派 物部守屋 … 仏教反対派(神道) 572年 蘇我馬子が大臣(おおおみ)になる。 587年 蘇我馬子が物部守屋(もののべのもりや)と戦争になり、物部守屋をたおす。 蘇我馬子が朝廷で最大の権力者になる。 588年 蘇我馬子が法興寺(ほうこうじ 飛鳥寺ともいう)を建て始める。 ↓ 天皇でさえ建てたことのない規模の寺院であり、蘇我氏の力を見せつける。 ↓ 592年 天皇が蘇我氏の権力をけずろうとして、天皇と蘇我氏の対立が起こる。 ↓ 蘇我馬子が東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使って崇峻天皇 (すしゅんてんのう)を暗殺する。 ↓ 推古天皇(すいこてんのう 女帝)が天皇になる。 聖徳太子(しょうとくたいし)が摂政(せっしょう)になる。 聖徳太子と蘇我馬子がお互いに協力しあい政治を行う体制になる。 596年 法興寺(ほうこうじ 飛鳥寺ともいう)が完成する。 603年 官位12階(かんい12かい)をきめる。 604年 17条の憲法(17じょうのけんぽう)をきめる。 607年 小野妹子(おのの いもこ)を中国(隋)(ずい)におくる。(遣隋使 けんずいし) 622年 聖徳太子が亡くなる。 ↓ 蘇我馬子がふたたび権力をふるう。 626年 蘇我馬子が亡くなる。(?才) 蘇我馬子の子の蘇我蝦夷(そがのえみし)が大臣(おおおみ)になる。 ↓ 蘇我氏の横暴(おうぼう)がひどくなる。 ● 人 物 評 蘇我馬子(そがのうまこ)はよく聖徳太子と対比されることが多い。権力を独占したい蘇我馬子と逆に蘇我馬子の権力をけずり、天皇の力を大きくしたい聖徳太子。目指す目的がまったく正反対のこの二人は、お互いが協力し、お互いをけんせいし合うことで、安定した政治を確立しようとした。聖徳太子は豪族たちを支配するのに蘇我馬子の力を利用し、蘇我馬子は自分の思いのままに天皇をあやつるために聖徳太子を利用したとも言えるだろう。つまり、ギブ アンド テイクの関係といえる。この関係のために、蘇我馬子も聖徳太子が生きている間は、いやいやながらも天皇中心の政治の確立に力を貸すことになる。蘇我馬子に功績があるとすれば、仏教を日本に受け入れた点であろう。これ以後、仏教は急速に日本に広まっていくことになる。 |