解体新書(かいたいしんしょ)を作成した医学者 杉田玄白 (すぎた げんぱく) |
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● 活やくした時代 1733年〜1817年 江戸時代(えどじだい) ● 活やくしたこと 1733年 若狭国(わかさのくに 福井県)、小浜藩(おばまはん)の藩医(はんい)である 杉田甫仙(すぎたほせん)の子として江戸で生まれる。 1749年 杉田玄白が漢学(かんがく)を宮瀬竜門(みやせりゅうもん)に、 医学(いがく)を西玄哲(にしげんてつ)に学ぶ。 1754年 山脇東洋(やまわきとうよう)が、初めて死体の腑分け(ふわけ 解剖のこと) をする。 1757年 杉田玄白が江戸で医者を始める。 1766年 杉田玄白が前野良沢(まえのりょうたく)に連れられて、オランダ語の通訳 (つうやく)と会い、オランダ語の勉強の難しさを知る。 1769年 父の杉田甫仙(すぎたほせん)が死ぬ。 杉田玄白が藩主(はんしゅ)酒井家(さかいけ)の侍医(じい)となる。 1771年 医師の中川淳庵(なかがわじゅんあん)にオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」 を見せられる。 ↓ 杉田玄白が前野良沢(まえのりょうたく)とともに腑分け(ふわけ 解剖のこと)を 見学する。 ↓ 「ターヘル・アナトミア」の解剖図(かいぼうず)と実際の人体の内臓(ないぞう)と を比べて、その正確さにおどろく。 ↓ 杉田玄白が前野良沢(まえのりょうたく)らと「ターヘル・アナトミア」を日本語に する決意をする。 ↓ 1774年 「ターヘル・アナトミア」を日本語にした「解体新書(かいたいしんしょ)」が 刊行(かんこう)される。 1815年 杉田玄白が「蘭学事始(らんがくことはじめ)」を書く。 1817年 死去(85才) ● 人 物 評 伊能忠敬といい、杉田玄白といい、前野良沢(まえのりょうたく)といい、この時代の人々のねばり強さと近代化(きんだいか)にかける意気込み(いきごみ)には感服する。杉田玄白も前野良沢も「ターヘル・アナトミア」を日本語にするのに3年もの月日を費(つい)やしている。「まゆ毛」の意味を説明したたった1行のオランダ語を日本語にするのに一日がかりで考えぬいたという話も残っている。自分の夢の実現にかけた人々が残したものは本当にすばらしい。 |