日本初の公害をうったえ続けた政治家

  田中正造 (たなか しょうぞう)
● 活やくした時代   1841年〜1913年
                江戸〜大正(たいしょう)時代

● 活やくしたこと

  1841年 下野国(しもつけのくに 栃木県)の名主の家に生まれる。

  1857年 田中正造が名主になる。

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         自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)に参加する。

  1879年 「栃木新聞(とちぎしんぶん)」を発行する。

  1880年 田中正造が栃木県会議員(とちぎけんかいぎいん)となる。

  1884年 田中正造が加波山事件(かばさんじけん)で牢屋に入れられる。
           栃木県知事の三島道庸(みしま みちつね)の暗殺事件に、田中正造が
           加わったと疑われて牢屋に入れられた。

  
1886年 田中正造が栃木県会議長となる。

  1890年 田中正造が衆議院議員(しゅうぎいんぎいん)に当選する。

  1891年 田中正造が帝国議会(ていこくぎかい)で足尾銅山(あしおどうざん)の鉱毒問題
         (こうどくもんだい)について質問書を出す。
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         10年間、帝国議会に質問書を出し続けるが明治政府は無視を続ける。
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         足尾銅山(あしおどうざん)の鉱毒の被害を受けた谷中村(やなかむら)を池の底に
         沈める計画を立てる。
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  1900年 川俣事件(かわまたじけん)が起こる。
           鉱毒の被害を受けた農民たちが団結して東京に押しよせようとして、警官隊と
           ぶつかる。

  1901年 田中正造が衆議院議員をやめる。

         田中正造が天皇に足尾銅山の鉱毒問題を直訴(じきそ)をする。

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        田中正造は狂人(きょうじん 気が狂った人)扱いされて、直訴は失敗する。

  1904年 田中正造が谷中村に定住する。
           以後、亡くなるまで、谷中村の農民の一人として、堤防(ていぼう)を築くなど
           して、鉱毒問題に取り組む

  1913年 病に倒れ、病死する(73才) 
           亡くなった時に田中正造の持ち物は、1個の袋とすげがさだけ。
           その袋の中には「憲法」と「新約聖書」と「日記」の三冊だけ。


● 人 物 評

  田中正造(たなかしょうぞう)は、足尾銅山(あしおどうざん)の鉱毒事件(こうどくじけん)の解決に一生をつくしたと言えるだろう。衆議院議員になるためには当時の15円の
税金をはらっていなければならない。田中正造も衆議院議員になるということはそれだけの税金をはらっていたということであり、それなりの財産家であったということである。だが、田中正造が亡くなった時には、袋1個とすげがさだけであった。田中正造は、その財産を谷中村の鉱毒問題の解決にすべてをついやしたということであろう。堤防(ていぼう)を築くなどの治水工事の費用は、田中正造が自分で負担していた。人のためにここまでつくすことができる人物はそうはいない。田中正造は本当に立派な人物であると言える。


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