悲劇(ひげき)の連合艦隊司令長官

  山本五十六 (やまもと いそろく)
 
● 活やくした時代   1884年〜1943年
                明治〜昭和時代

● 活やくしたこと

  1884年 もと長岡藩(ながおかはん 新潟県)の武士の高野貞吉(たかの さだよし)
         の6男として生まれる。 

  1904年 山本五十六が海軍兵学校を卒業する。


  1905年 日露戦争がおこる。
         少尉候補生(しょういこうほせい)として、戦艦「日進」に乗る。

  1916年 山本家のあとを継ぐ。

  1919年 山本五十六がアメリカに駐在(ちゅうざい)し、ハーバード大学で学ぶ。

  1921年 山本五十六がアメリカから帰国する。
         山本五十六が海軍大学校の教官になる。
            
  1933年 山本五十六が第1航空戦隊司令官になる。

  1934年 山本五十六がロンドン軍縮会議(ぐんしゅくかいぎ)に出席する。
           軍縮会議・・・軍の軍備をへらす会議
            ↓
            日本が飛行機の製造に力を入れるように提案する。

  1935年 山本五十六が海軍航空本部長になる。

  1936年 山本五十六が海軍次官になる。

  1939年 山本五十六が連合艦隊司令長官になる。

  1940年 日本が
日独伊(にちどくい)三国軍事同盟を結ぶ。
           日独伊(日本、ドイツ、イタリアの3国のこと)
            ↓ 
           「アメリカとどうしても戦えと言われれば、はじめの半年は何とかなるが、
            2、3年と長引けば勝てるか確信は持てません。」と言って山本
           五十六は日米開戦に反対する。

  1941年 日本がアメリカの
真珠湾(しんじゅわん)を攻撃する。
           山本五十六が飛行機を使った真珠湾(しんじゅわん)攻撃の奇襲作戦
           (きしゅうさくせん)をたてる。
            ↓
         
太平洋戦争が始まる。  

  1942年 日本がミッドウェー海戦で大敗北する。

  1943年 戦死する。(60才)
          山本五十六が飛行機で前線に向かう途中、日本軍の暗号を解読したアメリカ
          軍の戦闘機におそわれ、戦死する。
         死後、元帥として国葬(こくそう)される。


● 人 物 評

  真珠湾(しんじゅわん)奇襲攻撃(きしゅうこうげき)の作戦を立てたのは、山本五十六である。だが、山本五十六は最後まで、アメリカとの戦争は反対であった。アメリカに駐在したことのあった山本五十六は、アメリカの経済力と軍事力の巨大さを知っていたのである。それは、アリが象にかみつくようなものであることを・・・・。結局、山本五十六も時代の流れには勝てなかったのだろう。太平洋戦争の渦中(かちゅう)に巻きこまれていくことになる。山本五十六の予想通り、日本は半年はアメリカ軍に勝つことはできたが、2、3年と長引くにつれて、日本はじりじりと追いつめられ、1945年に敗戦をむかえることになる。皮肉なことである。


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