豊臣秀吉の側室(そくしつ) 淀君(よどぎみ) ※ 茶々(ちゃちゃ)ともいう。 |
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● 活やくした時代 1567年〜1615年 安土桃山(あづちももやま)時代 ● 活やくしたこと 1567年 浅井長政(あざいながまさ)とお市(おいち)の長女として生まれる。 幼名は茶々(ちゃちゃ) ※ 母のお市は織田信長(おだのぶなが)の妹である。 1573年 父の浅井長政が織田信長に討たれ、小谷城(おだにじょう)で自害 (じがい)する。 母のお市が茶々とともに、小谷城(おだにじょう)を出て、織田信長の 元にもどる。 1582年 本能寺の変で織田信長が討たれる。 母のお市が織田信長の家臣であった柴田勝家(しばたかついえ)と 再婚(さいこん)する。 1583年 賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで豊臣秀吉(とよとみひでよし)に養父の 柴田勝家(しばたかついえ)が討たれ、自害(じがい)する。 母のお市は柴田勝家とともに自害する。 茶々は敵の豊臣秀吉に保護される。 1589年 茶々が豊臣秀吉の側室(そくしつ)になる。 茶々が長男の鶴松(つるまつ)を生む。 茶々が淀城(よどじょう)を与えられ、淀君(よどぎみ)と呼ばれるようになる。 ↓ 鶴松が3才で病死する。 1593年 淀君が豊臣秀吉(とよとみひでよし)の次男の豊臣秀頼(とよとみひでより) を生む。 1598年 豊臣秀吉が伏見城(ふしみじょう)で病死する。 1600年 関ヶ原(せきがはら)の戦いがおこる。 【関ヶ原(せきがはら)の戦い】 豊臣秀吉の家臣の石田三成(いしだみつなり)と徳川家康 との勢力争い 「天下分け目の戦い」と言われる。徳川家康が勝利する。 〈 西 軍 〉 対 〈 東 軍 〉 石田三成 徳川家康 毛利輝元 福島政則 小早川秀秋 黒田長政 小西行長 藤堂高虎 ↓ 淀君と豊臣秀頼はこの戦いに直接関係しなかったが、大阪周辺を領地と する 65万石の一大名になってしまう。 ↓ 徳川家康(とくがわいえやす)が実権をにぎる。 1601年 豊臣秀頼が正二位(しょうにい)・権大納言(ごんだいなごん)になる。 1603年 徳川家康(とくがわいえやす)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になり、 江戸幕府を開く。 豊臣秀頼は内大臣(ないだいじん)になる。 ↓ 豊臣秀頼が徳川秀忠(とくがわひでただ)の娘の千姫(せんひめ)と結婚する。 1614年 方広寺(ほうこうじ)のつり鐘(がね)事件がおこる。 【方広寺(ほうこうじ)のつり鐘事件】 豊臣秀頼が修理をしていた方広寺(ほうこうじ)のつり鐘 (がね)の文章が、徳川家康を呪(のろ)っているとされた事件 ・ ・ ・ ・ 国家安康 君臣豊楽 ↑ 家康の名前を分け、呪(のろ)っているとした。 ↓ 大阪冬の陣が始まる。 徳川家康の江戸幕府と豊臣秀頼との戦い ↓ 淀君が豊臣秀頼とともに大阪城に立てこもる。 ↓ 淀君と豊臣秀頼は徳川家康と仲直りする。 ↓ 1615年 大阪夏の陣が始まる。 ↓ 大阪城で母の淀君ととともに自害(じがい)する。(23才) ↓ 豊臣氏がほろびる。 ● 人 物 評 淀君(よどぎみ)にとって、最大の不幸は時の流れを感じ取れなかったことであろう。豊臣秀吉の死後、その実権は徳川家康へと移っていた。だが、プライドの高い淀君にとって、その流れを認めることができなかったのであろう。これが、豊臣氏のすべての運命を決めることになった。1615年、豊臣氏はほろびることになる。ちなみに浅井長政(あざいながまさ)とお市(おいち)の間には3人の娘が生まれる。浅井3姉妹(あざいさんしまい)と呼ばれている。長女の淀君は豊臣秀吉の妻(つま)である。次女のお初は京極高次(きょうごくたかつぐ)の妻である。3女のお江(おごう)は2代将軍の徳川秀忠の妻(つま)である。お江(おごう)は3代将軍の徳川家光(とくがわいえみつ)の母でもある。 |