敗戦後の日本を立て直した首相

  吉田 茂 (よしだ しげる
● 活やくした時代   1878年〜1967年
                明治〜昭和時代

● 活やくしたこと

  1878年 高知県出身の竹内綱(たけうち つな)の5男として東京で生まれる。

  1881年 吉田茂が横浜の貿易商人の吉田健三(よしだけんぞう)の養子になる。

  1906年 吉田茂が東京大学法学部を卒業し、外務省に入る。

  1928年 吉田茂が外務次官になる。
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         吉田茂が中国、イタリア大使などをつとめる。
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  1936年 吉田茂が外務大臣の候補になるが、軍部の反対にあってなれない。
         吉田茂がイギリス大使になる。


  1939年 吉田茂が外交官をやめる。

  1941年 日本軍が
真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まる。
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         吉田茂が日米開戦(にちべいかいせん)に反対する。
         アメリカとの和平工作をする。
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         吉田茂が憲兵隊(けんぺいたい)につかまり、刑務所(けいむしょ)に入れられる。

  1945年 日本が敗戦する。
         吉田茂が東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣の外務大臣になる。
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         続いて、幣原(しではら)内閣の外務大臣になる。
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  1946年 吉田茂が内閣総理大臣になる。
        
連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥の指示のもとに敗戦処理を行う。
        
日本国憲法が公布される

  1950年 
朝鮮戦争がおこる。
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         吉田茂はアメリカの再軍備を要望を断り、経済に力を入れる。

  1951年 吉田茂が
サンフランシスコ講和会議に出席する。
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         日本の独立が回復される。
         
日米安全保障条約(にちべいあんぜんほしょうじょうやく)を結ぶ。

  1954年 吉田茂が内閣総理大臣をやめる。(第5次吉田内閣の時)

  1960年 吉田茂が池田勇人(いけだはやと)や佐藤栄作(さとうえいさく)などを内閣総理大臣
         につけ、影から政治を指導する。
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         吉田茂が白足袋(しろたび)をはいていたことから、白足袋宰相(しろたびさいしょう)の
         あだ名で呼ばれる。

  1967年 病死(90才) 
         国葬(こくそう 国をあげての葬儀)が行われる。    


● 人 物 評

  吉田茂は、敗戦で何もかも失った日本の政治、経済を復興(ふっこう)させた立役者であるといえるだろう。内閣総理大臣とはいえ、連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥の指示を受けながらの復興(ふっこう)である。アメリカの要求を満たしながらも、ある程度の日本の意志もつらぬくというむずかしい政治運営を強いられながらも、日本の復興(ふっこう)を行った点はすごいといえる。吉田茂は、マッカーサー元帥に対して決して卑屈(ひくつ)にならず、対等の立場で話し合いを行ったという。吉田茂の功績は、アメリカの支配を受けながらも、日本の独立と復興への道しるべをつくりあげた点であろう。


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