405. 黒木・陽炎・吹雪・響 ほか、戦争関連の名前
Gメン75のメンバーには、戦争に関連した名前があると思っていたので、少しまとめました。
以下は、同じ名前だからという事だけで、推測で書いています。
明確にこの引用だと書かれた書物は見たことがないので、本当に関係があるかどうかは判りません。
1.黒木警視正(及びキイハンター 黒木鉄也)
日露戦争の名将 第1軍の司令官「黒木大将」。(黒木為驕j
司馬遼太郎の有名な小説「坂の上の雲」で、良く知られていると思うが、
ロシア陸軍の撃破に、一番の貢献をしたのが黒木大将率いる第1軍であり、
ロシアの軍司令官クロパトキンが、最も恐れた将軍がこの黒木大将である。
2.立花警部
字は違うが、日露戦争で活躍した「橘(たちばな)中佐」。
「軍神」と呼ばれ、遼陽城の攻略戦で有名な武人。(橘周太)
もちろん、司馬遼太郎「坂の上の雲」でも描かれている。
3.南雲警視
1)第2次世界大戦で、ハワイ真珠湾の奇襲攻撃に成功した、機動部隊の
司令官「南雲中将」。(南雲忠一)
2)ミッドウェー海戦では、アメリカ海軍に大敗した。
3)しかし、 〃 の4ヵ月後、 昭和17年10月26日、「南太平洋海戦」
ではアメリカ海軍に勝利し、アメリカ側に「史上最悪の海軍記念日」と
言わしめた。
4.草鹿刑事
1)ハワイ真珠湾 の奇襲攻撃に成功した、機動部隊の参謀長「草鹿少将」。(草鹿龍之介)
2)南雲中将の下で、「ミッドウェー海戦」 も 「南太平洋海戦」 も、機動部隊の参謀長として働いた。
5.吹雪刑事(及び キイハンター 吹雪一郎)
以下のことは、このHPを設立してから知りました。
(関連は人名ではなく軍艦の名前ですが、少し詳しく書きます)
1)欧米列強による日本対策
日露戦争で、ロシア軍バルチック艦隊に完勝 (1905年) した日本を、欧米列強は恐れ1922年のワシントン軍縮条約で、日本は主力艦を、米英の60%しか作れなくなった。−−−これでは戦争には勝てない。
そのため日本は、従来の常識を破った戦法を発案する。
2)日本の斬新な戦法
条約の対象外である 「駆逐艦」 に注目し、"強力な駆逐艦”により戦艦等の
主力艦を撃沈する作戦を立案した。
世界の常識では、補助艦に過ぎない 「駆逐艦」 には、 「高速」 と 「重武装」 を両立するのは不可能だと考えられていた。
しかし日本は主力艦40%の差を埋めるため、常識を凌駕する”強い駆逐艦”により敵軍を撃破することを目指した。
それが世界の海軍史上に輝く、革命的な傑作 「駆逐艦 吹雪」 となって結実した。−−この 「吹雪型」 こそ、戦力を抑制された日本が、米海軍に勝利するための期待の軍艦であった。
<名称>吹雪型は常識を凌駕する高性能のため 「特型駆逐艦」 とも呼ばれた。
当初は第35号駆逐艦として建造されたが、竣工時に 『吹雪』 と命名された。
3)駆逐艦の"革命”と「天才」
当時日本には、世界レベルを超える優秀な技術者がいた。「天才」と呼ばれた「藤本喜久夫大佐」である。
重兵装にもかかわらず非常な高速艦で、かつ荒海でも軽巡洋艦を超える戦闘が可能という、海軍の要請をほぼ全てクリアする"
画期的な駆逐艦"を完成させた。
日本の軍艦は、全般的に優秀ではあるが、実際は既成の原理の"改良・拡大”に過ぎないものが殆どで、大戦艦も例外ではなかったという。
しかし 「吹雪型 駆逐艦」 こそは、斬新な技術が取り入れられ、未来を先取りした革命的な傑作である。
その結果、日本海軍で一番優れているのは、「吹雪型」 と言われた。
特に速力は公式の38ノットよりも速く、実力は39ノット出たという。
( 1ノットは1,852m、38ノットは時速70.4キロ)
駆逐艦は英語で、デストロイヤー(destroyer)なので、吹雪型は「スーパー・デストロイヤー」と呼ばれた。
3)欧米の驚愕と対抗策
従来の1.5倍と言われる「駆逐艦 吹雪」の高性能は、欧米の駆逐艦を一気に旧式に追いやり、羨望の的となったが、同時に恐れられた。
その結果、欧米列強は、ロンドン会議を開催させて「新条約」で、駆逐艦も制限対象にしてしまい、吹雪型は、計画の36隻から24隻と削減され、吹雪型の駆逐艦もそれ以上は造れなくなってしまう。
<この会議の際> 米海軍の提督が 「わが国には300隻の駆逐艦があるが、吹雪型50隻となら
喜んで交換に応じる」 とまで、恐れられた駆逐艦である。
以降は、日本のみならず世界の駆逐艦は、「吹雪型」 を目標として建造されるようになる。
しかし欧米には天才はおらず、後の第2次世界大戦の頃でも、「吹雪型」 ほどの高性能な駆逐艦は作れなかった。
5.吹雪型の1番艦 「吹雪」
日華事変から戦争に参加し、敵の艦船と何度も戦い、何隻もの敵艦を撃沈した戦績を誇る栄光の艦となった。
ソロモン海域等の、多くの戦闘で実力を示したが、 太平洋戦争での活躍期間は1年と短かった。
最後は、米海軍のレーダーによる待ち伏せにあい、 敵の大艦隊の圧倒的な砲火により炎上し沈没した。
但し、その1年間は日米の海軍力が拮抗していた為、主力艦による艦隊決戦こそなかったが、ガチンコ勝負での
敵の巡洋艦や駆逐艦との海上決戦は数十回も行なわれた。 「1番艦 吹雪」は、休むまもない激戦を続けた。
(太平洋戦争で、軍艦として一番最初に敵艦を沈めたのが、「1番艦 吹雪」で、当時の新聞にも掲載されたという。)
「戦艦大和」 などは、艦隊決戦がなかった為、実戦は僅か"2度"しかなかったのに比べ、 活躍期間が1年とはいえ、
数十回の海戦を行なった 「1番艦 吹雪」 は、激闘の連続であったことがわかる。
(参考) 吹雪型の中で、「雪」がつく艦名は、「吹雪、白雪、初雪、深雪」と、追加で建造された「名雪」の計5隻。
6.響刑事
<駆逐艦 「響」 >
吹雪型24隻で1番艦は 「吹雪」 だが、最後に進水したのが 「駆逐艦 響」 である。(号数は22番艦)
駆逐艦 「響」 の名前を見たときは、本当に驚いた。
響刑事の 「響」 は、キイハンターの 「吹雪」 と語呂が似ているから、採用された
名前だと推測していたが、駆逐艦 「響」 の名前から引用したのかも知れない。
太平洋戦争で軍艦は次々と失われたが、駆逐艦 「響」 は、強運の艦だった。
「1番艦 吹雪」 のように、「22番艦 響」 には敵艦を撃沈した戦績こそないが、長期間に多くの戦域で活躍し、何度も魚雷等で小破・大破してピンチになりながらも沈没を免れ、大修理で復活し終戦まで生き残った数少ない艦である。
何度もピンチから立ち直ったことから、吹雪型の中で 「響」 は不死鳥と言われた。 (吹雪型で終戦まで残ったのは、「名雪」 「潮」 「響」 の3隻のみ)
大和特攻にも参加予定だったが、直前に小破したため参加できなかった。
「響」は終戦の日、玉音放送の始まる5時間前にアメリカ空軍の空襲時に機銃を発射しており、この銃撃が日本海軍最後の銃撃とされる。 −− さらに、戦後も復員輸送を行うなど長く活躍した。
7.陽炎(かげろう)
<陽炎型 駆逐艦>
ロンドン条約により、駆逐艦の能力を規制されたが、ついに日本は欧米との決戦のため、ロンドン条約を無視して
建造した最新鋭の駆逐艦。
太平洋戦争の直前に建造され、航続距離が長いことから 「機動部隊」 と共に、太平洋戦争で活躍した栄光の
駆逐艦。
Gメン歩きで、スタッフが 「陽炎」 にこだわったのも、ひょっとしたら関連があるのかも知れない。
(Gメン歩きの撮影時に、「陽炎」が立たない時は、スタッフは水を撒いて「陽炎」を立たせた。
また、Gメン75の挿入歌にも「蜉蝣(かげろう)」がある)
欧米との条約に縛られず、吹雪型の能力を目指して作られた。 (吹雪型の設計者の後任が設計)
武装は吹雪型を少し超え、各種の装備は最新鋭になった。 しかし速度は吹雪型の90%しか出なかった。
(それでも欧米の駆逐艦と、同程度のスピードではある)
<不沈艦 「雪風」>
陽炎型は20隻建造されたが、殆どの艦が沈んだ。
しかし僅かに1隻、 「不沈艦」 ・ 「奇跡の艦」 として、世界的にも有名な 「雪風」 だけが終戦まで生き残った。
「雪風」は20隻建造された陽炎型の8号艦で、 連合国からも第二次世界大戦最優秀艦と賞されたという。
「雪風」は太平洋戦争当初から、大和出撃までの主要海戦16回の全てに参加し、その他護衛作戦にも数多く参加した。
それほど多くの海戦に参加しながら、爆弾も魚雷も殆ど受けず無傷であったので、奇跡の艦と言われる。
大和と共に沖縄へ出撃した時は、今度こそ最後かと思われたが、数百機の猛攻撃にも、被弾は爆弾1発だけだった。
<注 : 以下は、Gメンとは全く関係ありません>
8.新戦法を考案した日本
開戦からの1年間は、ミッドウェー敗戦後も戦力は拮抗し、巡洋艦や駆逐艦らのガチンコ勝負が何度も行なわれたが、艦船の数で劣る日本軍が逆に、その優秀な艦船と猛訓練により、少なくとも夜戦では、米軍を押していた。
その頃までは、駆逐艦 「吹雪」 や 「響」、「陽炎型」 らが得意の夜戦で活躍していたが、敵は夜戦は不利なために勝負を挑んでこなくなった。
日本はまず、主力を撃滅する為に、 「駆逐艦」 を活用する新戦法を考案し、次には 「航空機」 による新戦法を考案した。 ともに、世界の常識を凌駕した新戦法だった。
しかし、これはやがて敵にまねられ、レーダーを開発した米軍の物量にも圧倒される。
米空軍の増強はさらに続き、その頃から米軍はレーダー活用による待ち伏せ作戦を仕掛けた。
そして工業生産力の違いから、日本は少しずつ圧倒されていく。
9.空爆では沈みにくい、駆逐艦の妙技
私は以前、「駆逐艦は速いといっても、爆撃機に襲われたら、手も足も出ないだろう」 と思っていた。
爆弾が当たらなければ 「運がいい」 という、程度に思っていた。−−ところが、そうではなかった。
現実は、駆逐艦の爆撃回避の能力は非常に優れており、 空爆で撃沈したことが非常に少ない。
(逆に、駆逐艦の機関銃で敵機を撃墜する可能性の方が遥かに高い)
例えば、ガダルカナル海域では、駆逐艦20隻の編成で、何度も輸送作戦が行なわれ、 毎回、米空軍数十機
による襲撃を受けた。 この嵐のような空爆の連続にもかかわらず、沈没したのは僅かに1隻だけだった。
(注:米軍は駆逐艦攻撃の、あまりの効率の悪さに、スキップボミングという攻撃法を考案し、
その最初の空爆では、日本側は要領がわからず4隻沈められたが)
駆逐艦が沈んだのは、ほとんどが敵艦の砲撃か、潜水艦の魚雷であった。
なぜ駆逐艦は、空爆では殆ど沈まなかったのか?
それは、駆逐艦の回避能力が、当時の爆撃を上回っていたからである。
また、不沈艦と言われた 「雪風」 の艦長は、爆撃回避の名人と言われ、 殆ど全ての爆弾・魚雷を回避した。
「雪風」が生き残ったのは幸運もあるが、駆逐艦の回避能力と共に、艦長の高い技量によるものだった。
10.「初霜」の勇戦と、爆撃回避
しかし他にも、名人はいた。
大和特攻に参加して勇戦した 「初霜」 の艦長であり、 爆撃回避の名人と言われた。
大和攻防戦で、「雪風」 は前記したように、爆弾1発を被弾したが、 「初霜」 は1発も被弾せず無傷で帰投した。
その「初霜」の艦長が、後に語った回避方法とは、
1)爆撃機が飛来しても直進する。 爆弾等を投下する時まで、直進する。
2)投下した直後に、その方向と位置を確認し、「取り舵」 か 「面舵」 をとって、転進する。
こうすれば、爆撃を避けられると言う。 さらに、
敵の爆撃を避けるには、例えば大和攻防の時には、大和は最大戦速27ノットで沖縄を目指していたが、
それと同じスピードにしてはいけない。初霜は35〜37ノットで航行し、大和のスピードに差をつけた。
こうすれば、米軍の爆撃機は勘が狂いやすいという。
大和攻防時に、 「初霜」 に乗っていた人によると、
米軍機が落とした爆弾は、「初霜」 の右に左に落ちて水柱をあげ、、、 魚雷は、 急転回した 「初霜」 の後ろを
通り過ぎていった。 その間にも 「初霜」 の機関銃は銃撃をつづけ、敵機を撃墜したと言う。
−−「初霜」 や 「雪風」 が、爆撃を回避しながら、 懸命に勇戦している姿が目に浮かぶ。
こう書けば簡単なように見えるが、実際は、爆撃機が突っ込んでくる方向や角度、それが爆弾なのか、魚雷なのか
どの距離で投下したかによって、舵をどちらにどの程度、切れば良いかが違う。 しかも攻撃は次々とくる。
やはり、これは至難の業である。
米軍の事前の作戦では、大和 1 艦に攻撃を集中する計画だった。 ところが、いざ攻撃を開始すると、9隻の
護衛艦に、ハリネズミのように装備された、機関銃からの対空銃火は凄まじく、 とても大和だけを、狙えるような状況ではなかった。
その為に急遽、10隻全部を攻撃することに切り換えたという。
注) 大和攻防戦では、 雪風 ・ 初霜以外の8隻は、 6隻が沈没、1隻が大破、1隻が小破した。
(小破の1隻は、他にも爆弾が命中したが、幸い不発だった。)
ここまで生き残っていた、駆逐艦の艦長たちは、 爆撃回避のベテランぞろいのはずだが、
殆どが沈没した。この時の、米軍機の爆撃がいかに凄まじかったかがわかる。