いろいろ 2006年5月28日



父と私が連れ立って買い物に出かけました。
母と二人ということはあっても、父と買い物とは想像もしていませんでした。 80才の父と50才の私が一眼デジカメを買い求めようとふらふらしていたのです。

出かけた夜、私の思いは30年ほどバックしました。

父は、よく私を迎えにきていました。
私が学生の頃とは、地下鉄東西線が開通した頃で、私は千葉から九段下まで通学していました。
催し物があったりして帰宅が遅くなる日には、母の指示に従い、父は私のお迎え役となるのでした。
あの頃、一応思春期の私は、それが本当に嫌で、現代流行でいうところのムカツクと言う感じでした。

考えてみれば、その当時の父母の年齢以上に私がなっている様です。
それでも、昨年母が手術になった時には、体調の不調に気がつくのが遅かったと父に対してムカツク私がいました。

ところが、その感情は、最後の頃には全ての家事をこなしていた父を見ていたからか希薄になり、加えて母を一緒に見送ったというひとつの共同作業を終えた仲間の様な感覚になっているのかもしれません。

我が家の中心だった母が他界したことによって、必然的に新しい父娘関係が出来上がってくるのかもしれないと錯覚かもれませんが、私の方はそう感じています。

私がオヒトリサマということも今は好都合のようで、私は、父の気持ちを支えようと、その必要があるのかどうかも解りもしないのにばたばたしているのです。


いろいろ 2006年5月26日



モードがノーマルに戻ったかの感。
一日の仕事を終えて帰宅して、やっと。

急な出来事で、ご心配をおかけした方々に挨拶をして廻ったりして、エレベーターに乗ったら、周囲の空気と別物の私が居る様な気がした。

別物の私ではなく、職場という病院が、今までとは別物に感じられたのだ。

心には、よくない感触だった。
昨日、私自身が患者になって、大腸ファイバーをした時には何も感じなかったのだけれど。

職場にきてこんなセンチメンタルは勘弁してと思っていた私のモードが戻ったのは、いきなり救命外来の当番だったことのようだ。

今日も、容赦なく忙しかった。

たくさんの患者さんが、それぞれの訴えを持って来院する。

入院になったり、手術になったり、安心されて帰宅したり。

そして、それぞれの家族に、それぞれの小さなドラマが出来る。


いろいろ 2006年5月24日



母が搬送された時、私は救急車より一足先に自分の車で病院にむかった。

そして、その短い時間に息子の勤務先に携帯で連絡をした。

「いつもお世話になっております。母ですが、おりますか?」
まではよかった。

そこからだ。
「もしもし、おばちゃん、搬送されたからね」
電話の向こうで「はぁ?だれが??」
「おばあちゃんにキマッテルじゃない!」
「あとの判断はあなたに任せるから。じゃ」

これが私がかけた急ぎの電話。

しばらくして、息子の携帯から電話があった。
「誰に電話したのぉ。」
「???」
「上司のkataokaさんが、多分お前のお母さんだろうなぁ・・判断は任せるって、俺怒られたって・・・・」

いくら慌てていたからといって相手を確認しなかった私のミスですが、この話、このおかしな話を私は母と笑いたい。
こう思ったのです。
こういう少しのところにそのいなくなったという実感が出てくるのでしょうか。


いろいろ 2006年5月21日



要介護、そして介護休暇の申請中に母は亡くなりました。
それでも搬送される当日の朝も、私と父の手を借りはしましたが、トイレで用をたしました。

介護する側の考えでしかないけれど、私はよかったのではないかと思っています。

それと同時に介護休暇の申請に、どうして2週間を要するのかという疑問も頭の片隅に残ります。現行の決まりを知っていながらの勝手な言い分ですけれど。

「春になったら・・・」母が私に言い訳の様に口にしていた言葉。
亡くなる2週間程前の浜名湖への小旅行が、母にとっての春のだったのではないかと思う事にします。

残りの人生に関して考えが甘いのどうのと思っていた私ですが、その散り際はまさに母らしく、素早くきれいでした。
本人が望んでいた尊厳死の意思は達せられました。

モニターが一本線なった時のその表情には、穏やかさえが感じられました。


いろいろ 2006年5月17日



昨日は、母の受診も私自身の注腸もあったので、忙しかった。

その、合間に仕事をしている様な感じで、そちらの方も急いで片付けているのでこれまた、忙しい。
それを許して下さっているまわりの方々には、感謝です。

朝、出勤すると、「おばあちゃんは、どう?」と声をかけて下さる。
ケアマネの資格をもった看護師がいろいろ相談にのってくれる。

それでも、私は友人に電話をしたりもする。
昨日に至っては、キワムさんにメールも送ってしまった。

こんな風に私は、世の中に助けられているわけだけれど、半回神経麻痺で声がほとんどでない母は、親しい友人への電話も困難な日々が続いていた。
昨日で、術後一年、そして、デュロテップパッチを使い始めた。

どうして、こんな時期に自分も調子が悪いのかと腹立たしいが、とにかく忙しい事には変わりない。


いろいろ 2006年5月12日



そうだ、タイガーウッズもそうだったじゃない・・・。

頭の中のなにかがすっと消えた。

この記事書くのにいろいろ迷いがあり、書きはじめてから数日経過です。

ワリキリ完了。

私は、タイガーウッズの様に介護休暇をとることにしました。

大金持ちの世界のタイガーウッズを引き合いにだすとは、相当のお調子者。
自分に都合の良い様に物事を解釈するのだろうと我ながらあきれます・・・。

ニュースでしか知りませんが、ウッズはお父さんの看病の為にお休みしたことは確か。

介護休暇をとると言う事は、母の命の終わりが近いという意味になるので、私の頭の中には、判断できない戸惑いの様なものがありました。

私の職場では、この休暇で休みをとるには、申請してから2週間必要で、期間は最高93日まで。状況に応じて日数は変更可能。
無給になりますが、許可されるそうです。

私が、首に手をまわして・・・と言って、母を立ち上がらせなければならなかった時に、今が必要な時だと判断しました。
先日書いた記事が、まるでかなり前のもの様に、一日一日が大きく感じられます。

ワリキリが出来ていない、迷いの時の記事はなくなりました。

迷いながらの準備段階で人事課で説明を受けた際、親子関係を証明できるものの提出と言われ、顔を比べていただけばすぐよ・・・・と。あと、医師の診断書の方は、これの適応基準を満たしています。


いろいろ 2006年5月7日



転ばぬ先の杖・・先どり不安型の典型の様な一面を持つ私は、早い時期から母に車椅子を借りようと思っていた。
そこ頃には、そんなものと軽くあしらわれていた。

今は、ベットからトイレまでの安全な歩行について私は心配している。
そんな私に「あなたは、心配性ね」と母は言う。

トイレの粗相は、多分想像を超えたダメージを本人に与えると私は思っている。
私の様に、人工肛門だったり、尿意がなかったりして暮らしていると、もちろん軽く失敗する事もあるのだから、粗相によって受けるショックは少ないのだろうけれど。

これから起きてくる事柄に、深刻に対処する事は誰でも出来るかもしれない。

私に必要とされる事は、おそらく私しか出来ないだろうと言う対処をして行く事ではないかと自分を励ます。
元気の流れを送り続け、馬鹿な事を言って笑わせ、そして必要なことを大袈裟にではなくさりげなく導入する。
こんな感じかな。


いろいろ 2006年5月4日



約四年前、息子が二十歳になった時に何年ぶりかで家族旅行をした。
その時に訪れたのが、浜名湖。

それが、母の記憶の中に楽しい思い出として残っていて、今回もそうなったのだ。

この時、私は人工肛門ではないし、母も健康だった。
こういうのが時の流れなのだろうし、逆らう事が出来ないそれに対して自分がどの様に受け入れて行くかとうことで人生の中身が変わってくるのだろう。

四年前の写真は、まだ銀塩だった。

そこに写っている私の顔は、四年若いのだが、私はシミもかなり増えてはいるけれど、今の自分の顔の方が好きだと感じた。
フォーエバーヤングがよいわけではないと。

そして、距離時間にしてみれば、とても短いものだったが、この小旅行は、私の記憶の中にずっと残るものとなる事は間違いない。

月毎のいろいろ

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