いろいろ 2006年6月29日
6月29日
13時15分、オペ室入室。 いろいろ 2006年6月26日 入院を前にした今朝、私はこんなことを思った。
開高健さんと大江健三郎さん、丸めがねの大江さんとがっしりとしてタバコをくわえた開高さん、どう見ても強のイメージは開高さんだ。 オーパオーパの一節、「語るなら、声低く語れ」。
今回の入院は、単独、渡富山となる。
このHPの目的のひとつは、骨盤内臓器下垂の情報のやりとりだった。 入院時には、同意書のサインなどが必要なために息子に付き添ってもらうのだが、そこから先、退院まで、弱音、愚痴の類いも自分で吐いては飲む込む。
「語るなら、声低く語れ」
前回、麻酔下で私は、「クソ、ハナニモ、ハイッテ、イ・アガル」とNGチューブに対する文句を口走ったそうだ。
パウチを準備しての入院は始めてだ。 手術では、メッシュとテープが体内に入り、いよいよ自力ではなく、物の力を借りる事になる。感染などの点で術後管理がポイント。
戻ってくる頃には、梅雨も開けてすっかり夏のはず、冷房の中で寝て過ごした身には強烈な夏。 父は、また娘の心配だ。 次回の記事は多分入院中に出来上がって、投稿をまだかまだかと待っていることとなるだろう。
いろいろ 2006年6月24日 まっすぐな強い陽射しは、仕事をしている時にはいない時間帯の部屋で、その空気中の塵をも浮かび上がらせる。
術前で、少々狂った、脳内バランス。
昨年暮れに、違和感を感じてから、既にもう夏。 半年前には、想像できない展開になりそう。
2004年、半年の間に三回の手術をしてから、一年半後に出現した違和感。 その訴えは、半年の間空振りだった。
執刀医が見つかりそうになっては、さらに追い重なるトラブルで不具合は続いた。
今夜眠っている間に、50代への壁を越す。つまり、お誕。 今回予定されている手術の事、そして、生きている時間に関しても、半世紀が過ぎ(半世紀!!)、第二章へ。 テーマは・・・。 いろいろ 2006年6月21日 ミステリーの結末はすっきりがよい。 私のミステリーツアーの長い一日は、終わりました。 遠方からの受診ということで配慮いただき、初診にも関わらず、いったりきたり、膀胱造影、診断、オペの計画、ラスト・・術前検査まで一日で済ませて、これで、すっきりしていないなどはいえません。 いままでいくら膀胱の不具合を訴えても、外見上普通の脱のように外に突出しているわけではないので、理解してもらうに至らなかった点を理解していただくことができて、診断がついたということで、私の満足度は充分です。 つまり、内臓支持筋同様に恥骨直腸筋そのものが弱く、それ自体が下垂しているという診断。 これが単科の診察と異なるところで、私の求めていたものです。 それに対しては、今回の手術ではメッシュとテープの融合で細かい技が施される予定です。 距離感も不思議で、一度目はすっごく遠いという感覚が、二度目は遠いなぁ程になるので人間、私の感覚は適当なものです。 そして、おそらく弱い類いの人間の私は、これから、それなりに生きて行くコツを研究しなくてはなりません。 いろいろ 2006年6月17日
朝の写真撮りと近くへの買い物、私の外出は、今それくらい。 おそらく、私は弱い方の人間に入るのだろうと、スーパーで、劣等感に襲われた。
私には、歯が立たない程の度迫力が備わっている同年代。 足下にも及ばない感じなのに、私の肉体は、一体何歳相当なのだろう。 人工肛門造設から2年、一度の手術もなく過ごしてきが、倒壊は進んできた。
この倒壊を救おうと、期待と不安をクロスさせながら、ミステリーツアーもどきに出かける。 いろいろ 2006年6月15日 私は、驚く程落ち着いて、自分の状態の中にいる。
こんな事に慣れというのもおかしいけれど、慣れだ。
誰だって、体に麻痺のある状態や、眼や耳、どんなに小さな部分でにも、不自由な状態があってそれを受け入れて暮らして行くのは、大変だ。 たとえば、リハビリ室の前を通ると、外見上、それまでの豊な暮らしぶりが、そこここに感じられる、かもし出されるというのか、そんな雰囲気のご夫婦が、ご主人または、奥さんの不自由になった歩行の訓練をする姿をよく目にする。 こんなはずではなかったと心の中で叫んでいそうだ。
病気は誰にでも、お構いなしなのだろう。 「仕方ない」と言う言葉は、投げやりな様にも思えるけれど、受け入れの言葉でもある。 仕方ないとワリキル。 直接命に関わらないのだろうけれど、4回目の手術ができるのならば、生きて行くために手術に望もうと考えている私は、その生き方を、さっぱりと逝ってしまった母と比較しないわけではない。
命に関わらないのに、生きて行く為にと言うのはおかしな様な気もするけれど、この生きると言う事は、私の年齢相応の社会的立場を維持すること。 今朝の新聞に「タイガーウッズ、亡父のためVを」2ヶ月休んでいたウッズが、復帰の記事が載っていた。 いろいろ 2006年6月11日 ペンタサ注腸を始めても、そんなに二日三日で急によくなるわけがあるわけありません。 薬を使っていても、私なりに自己管理に気遣わなくてはならないと、心掛けようとは・・しています。
そんな中、仕事の仲間が、体調を崩したとの連絡が。
倒れたと聞いて、意識を失ったのかしら・・・すわっ・・頭、心臓・・と心配したのですが、激しい嘔吐で立ち上がることができなくなったということだと、彼女自身からのメールで解りました。 私自身は、この返信の内容とはほど遠い生活パターンを繰り返しているのに、常套句の返信で、苦笑いです。 「体を大切にするためにゆっくり休む」なんてヤナコッタ・・・と心掛けと常々の思いは異なります。 体調を崩しかけている時には、焦りが全体を加速させます。
日曜日の今日も、もう、横になりたいの感。 仰向け読書は難しいけれど、うつ伏せになるとより楽なのが好都合と、ベットの下の床に本を置いて、読むこの頃。
本と眼の位置関係が、絶妙です。細かいものの見えにくい私には好都合の距離らしく、眼鏡なしでも、さくさく。 いろいろ 2006年6月9日
おそらく、外科的な処置が行われるまでの当面の策として、私の腸炎に対して、潰瘍性大腸炎の注腸薬のペンタサが処方されました。 他の薬と合わせて考えると、保険上は矛盾していますから、どうなるかはわかりませんが。 一日一回、横になって、自分で注腸するのですが、こういうことに対してあまり抵抗の少ない私ですが、これは慣れるまでに時間が必要かもしれません。 日に当ててはいけないということで、遮光の袋に入っているし、なんだかとても重要そうな扱い。
「クサいものには蓋」式の考え方で、肛門だけちょっと閉じてしまえといかにも私の思いつきそうな案は取り入れられません。 いろいろ 2006年6月4日
私たちにとって、時間のスピードが尋常ではない5月が終わりました。
母はサービスエリアで、抹茶のソフトクリームをニコニコしながら食べていました。 この浜名湖に母がどれ程の余力を使ったのか、私には想像できません。 事故などによる突然のできごとではないので、私には、心の準備はあったはずですが、介護休暇が間に合わなかったので、スピードがマッチしていなかったと言う事です。
こんな私の心残りをよそに、周囲の方からは、子孝行なお母さんねとの反応を耳にします。 母が浜名湖で余力を大分使ったとして、それでは心の準備の方はどうだったのかと父と話をしました。
こちらに関しては、時間の受け止めがまた違い、「後少し」の感覚は2、3年のつもりでいたようです。 昨日、「リビング・ウイル」尊厳死協会の要旨を読んでみました。
私の傷病が、今の医学では治せない状態になり、死期が迫ってきたとき、いたずらに死期を引き延ばす措置は、いっさいおことわりします。 耳鼻科に依頼して、反回神経麻痺を確認して、次には麻酔科に依頼して、デュロテップパッチを使用する様に指示した内科の医師が、一番母にタイムリーだったということかもしれません。 よく考えると、私に先にデプロメールを処方していたのもこの医師だしね。 後遺症として、私は今、夜中にお菓子を食べるという昔の悪しき習慣が復活しています。 いろいろ 2006年6月2日 私の旧肛門の取り扱いが難しい局面をむかえています。
CFの結果から、ある外科医の意見。 そこでその医師は、そもそもの排便困難の原因は何なのか再検討してみたらどうなのかとおっしゃる。 骨盤内の臓器が落ちる何らかの疾患があるとして、それらの臓器を引き上げても排便は困難なのか。
友人の外科医がそれを専門にしていらっしゃるそうです。 ストーマでないことで、排便障害がまた出てきたら、再びストーマを造設する。 説明はよくわかるけれど、あと三回も手術かもというわけですか・・・。 大腸の神経の問題と臓器脱の問題が重なり合って造ったストーマですので、臓器脱を修復したところで排便障害が治ると私には思えないのだけれどね・・・・。 それに私としては、ストーマの生活によって排便コントロールが楽になりQOLは向上したので医師の言葉で腑に落ちないところがありました。
そこで、ストレートに尋ねてみましたよ。
さらに、検討は続きますが、この専門医に受診するには、車で3時間弱の通院距離が必要とされます。 それでも後で悔やむことのないような判断をしなくてはなりません。 |