本文へ

三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

1966年(昭和41年)10月29日建立。 合祀者34柱。(1)

伊三六三潜殉職者之碑

墓碑の上の潜望鏡は、本艦の夜間潜望鏡である。 1966年(昭和41年)1月26日に深田サルベージが引き揚げたものを譲り受けた。

碑文

伊三六三潜殉職者之碑

伊三六三潜水艦について

伊号第三百六十三潜水艦は改マル五(○の中に五)計画で建造された伊三百六十一型(丁型)潜水艦の3番艦である。

潜水艦で兵員・物件を輸送する案は戦前より提案されていたが、本格化するのはミッドウェー海戦後で、主として陸戦隊の兵員、機材の輸送という形で要求された。 計画当初は陸戦隊約110名、陸戦隊用機材10トンを艦内に収容し、特殊上陸用舟艇2隻を後部甲板に搭載する予定であった。 その後、建造中に仕様変更が行われ、1943年(昭和18年)には人員搭載施設を廃止し、物件搭載量を艦内125トン、艦外20トンと改めた。 さらに水中航続力増加の要求から艦内搭載量を65トンに減じた。

1944年(昭和19年)7月8日に竣工した伊号第三百六十三潜水艦はメレヨン、南鳥島などへの物件輸送に従事していたが、1945年(昭和20年)に入ると大型の伊号潜水艦の不足のため、本型にも回天搭載が実施されることとなり、3月の横須賀帰投時に回天搭載工事をうけた。 甲板上の兵装を撤去し、回天を前甲板に2基、後甲板に3基、合計5基を搭載するよう改装され、沖縄方面へ出撃した。 終戦時には呉に残存していたが、佐世保に回航中の10月29日、宮崎市住吉沖10海里の日向灘で触雷沈没した。(2)(3)

要目(2)(4)(5)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型丁型(伊三百六十一型)
建造所呉海軍工廠
水上排水量 ※11,440トン(基準)/1,779トン(常備)
水中排水量 ※12,215トン
垂線間長70.50m
全長73.50m
最大幅8.90m
喫水4.76m
主機艦本式23号乙8型ディーゼル2基、2軸
主電動機特8型2基
蓄電池1号15型×240
出力1,850馬力(水上)/1,200馬力(水中)
速力13.0ノット(水上)/6.5ノット(水中)
燃料重油:282トン
航続力10ノットで15,000浬(水上)/3ノットで120浬(水中)
乗員55名
兵装40口径十一年式14cm単装砲1基
九六式25mm単装機銃2基
九五式53cm魚雷発射管2門(艦首)
魚雷2本
搭載能力貨物85トン(艦内65トン、艦外20トン)
安全潜航深度75m
その他1945年(昭和20年)備砲および機銃を撤去、回天5基の搭載設備を設置。

※1:英トン(1.016メートルトン)

艦歴(3)(6)

年月日履歴
1943年(昭和18年)5月1日呉海軍工廠において起工。
1943年(昭和18年)10月20日伊号第三百六十三潜水艦と命名。
1943年(昭和18年)12月12日進水。 本籍を横須賀鏡守府と定める。
1944年(昭和19年)7月8日竣工。 第六艦隊第十一潜水戦隊に編入。 内海西部において就役訓練に従事。
1944年(昭和19年)7月9日呉工廠に入渠。 鳴音の防止工事に当たる。
1944年(昭和19年)7月13日呉を出港、伊予灘において訓練。
1944年(昭和19年)7月25日27日1300より、八島錨地において、約1時間、戦隊の対潜見張り訓練に参加を下令される。
1944年(昭和19年)8月9日別府に入港。 休養待機。
1944年(昭和19年)8月11日別府発、伊予灘において訓練。
1944年(昭和19年)8月19日呉に入港、補給整備。
1944年(昭和19年)8月29日呉発。 試験潜航の結果、右舷第二排出弁漏洩大なるため、修理のため呉に帰港、修理整備。
1944年(昭和19年)8月31日右舷第二排出弁摺り合わせを修理の上、試験潜航の結果、依然として漏洩大なるため、摺り合わせ以外の原因調査に約2日間を要すると報告した。
1944年(昭和19年)9月2日呉を出港、伊予灘において訓練。
1944年(昭和19年)9月7日別府に入港。 休養待機。
1944年(昭和19年)9月9日別府発、伊予灘において訓練。
1944年(昭和19年)9月10日呉に入港、補給整備。
1944年(昭和19年)9月11日作戦の都合により、艦の消磁は、12日午前と報告。
1944年(昭和19年)9月12日呉を出港、伊予灘において訓練。
1944年(昭和19年)9月13日最大戦速達転中、左舷機4番発動簡ピストン耳軸焼損。修理のため呉に帰着、修理整備。 作業を中止し、長浜沖において、第十一潜水戦隊司令部付を移したのち呉に回航、故障箇所を修理の上、横須賀に回航を下令される。 左舷機4番発動筒ピストンおよび、入子の換装を要するが、呉に在庫がないため、横須賀において換装の予定と報告。
1944年(昭和19年)9月14日第七潜水戦隊司令官は、呉工廠長に対し、艦の出撃期日切迫のため、整備を極力急ぎ、18日横須賀での入渠を手配中なることを通知。
1944年(昭和19年)9月15日第十一潜水戦隊から除かれ、第六艦隊第七潜水戦隊に編入。 呉発、横須賀に向かう。
1944年(昭和19年)9月16日横須賀着。 修理整備、輸送準備。
1944年(昭和19年)9月26日トラックおよびメレヨンに対する作戦輸送を下令される。
1944年(昭和19年)10月9日横須賀発、トラックに向かう。
1944年(昭和19年)10月21日トラックに到着、衣服5トン、その他5トン(マラリア剤80梱包、南東方面等に飛行艇で輸送)を揚陸、待機。
1944年(昭和19年)10月24日糧食60トン、衛生材料10トンを搭載、陸軍独立混成第五十旅団参謀を収容して、トラック発、メレヨンに向かう。
1944年(昭和19年)10月28日メレヨンに到着、橙食75トン、重油5トン、陸軍旅団参謀を揚陸、還送人員7名を収容、トラックに向かう。
1944年(昭和19年)10月31日トラックに到着、重油33トンを揚陸、還送人員82名を収容。内地帰投の準備に当たる。
1944年(昭和19年)11月2 日トラック発、横須賀に向かう。
1944年(昭和19年)11月16日横須賀着。 還送人員を揚陸、整備休養。
1944年(昭和19年)12月10日横須賀発、南鳥島に向かう。 作戦輸送。
1944年(昭和19年)12月17日南島島に到着、糧食88トン、弾薬10トン、その他10トンを揚陸、還送者60名を収容して、横須賀に向かう。
1944年(昭和19年)12月26日横須賀着。 還送人員を揚陸、整備休養。
1945年(昭和20年)3月5日横須賀発、南鳥島に向かう。 作戦輸送。
1945年(昭和20年)3月13日南鳥島に到着、輸送物件を揚陸して、横須賀に向かう。
1945年(昭和20年)3月20日第七潜水戦隊は解隊。 第六艦隊第十五潜水隊に編入。 横須賀に帰着、入渠、回天搭載設備の工事に当たる。
1945年(昭和20年)4月8日横須賀発、呉に向かう。
1945年(昭和20年)4月12日呉着。 以後、内港西部において回天との訓練に当たる。
1945年(昭和20年)5月22日回天特別攻撃隊轟隊に編入。 第六艦隊司令長官の指揮下に、沖縄−マリアナ間の補給路攻撃を下令される。
1945年(昭和20年)5月27日呉発、光基地において、回天5基を搭載、出撃準備。
1945年(昭和20年)5月28日光基地発、マリアナ諸島北西400浬付近に向かう。
1945年(昭和20年)6月15日沖縄南東500浬のウルシー−沖縄の連絡路上において、敵輸送船1隻を雷撃により撃沈と報告。
1945年(昭和20年)6月28日光基地に帰着、回天5基を卸し、呉に入港、整備休養。
1945年(昭和20年)7月17日呉発、内海西部において訓練。
1945年(昭和20年)7月26日呉に入港、補給整備。
1945年(昭和20年)8月3日回天特別攻撃隊多聞隊に編入、第六艦隊司令長官の指揮下に、西カロリン諸島方面に出撃を下令される。
1945年(昭和20年)8月6日呉発、光基地において、回天5基を搭載、出撃準備。
1945年(昭和20年)8月8日光基地発、西カロリン諸島方面に向かう。
1945年(昭和20年)8月9日ソ連の参戦により、日本海方面に向かうよう下令され、反転。
1945年(昭和20年)8月12日日本海において、ソ連機の銃撃を受けた。佐世保に向かう。
1945年(昭和20年)8月14日佐世保に帰着、補給整備。
1945年(昭和20年)10月29日佐世保に回航中、宮崎市住吉沖10海里の日向灘で触雷沈没。
1945年(昭和20年)11月10日除籍。

参考資料

  1. 梶本光義(編集責任者).呉海軍墓地誌海ゆかば:合祀碑と英霊.呉海軍墓地顕彰保存会,2005,p15-16
  2. ab雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 20巻 潜水艦伊号 伊400型 改甲型 潜高大 潜補 丁型 呂号 波号 特殊潜航艇他.東京,光人社,1997,p77-78
  3. ab前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 20巻 潜水艦伊号 伊400型 改甲型 潜高大 潜補 丁型 呂号 波号 特殊潜航艇他.p93
  4. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p21,53
  5. 日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p84,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  6. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編 3下.名古屋,ニュータイプ,2005,p888-891