二人孔明-前編-

 
孔明が烏林の近くの漁村に間借りした家が一軒ある。
もちろん、曹操軍の動向を探るためであるが、孫権軍に知られたくない情報を集めるために孔明が用意したものであり、密かにここへ通っていた。
そこへ、夜に紛れて一人の来客があった。

「均、久しぶりだね。寿春は退屈だったかい?」
「ここよりは退屈でしたね。兄上もお変わりないようで安心しました」
孔明は粗末な椅子に腰掛け、訪ねてきた者を見上げる。
その者の顔は孔明の顔と同じ容貌であった。

孔明を兄、と呼ぶこの男は孔明の年子の弟であった。
父を13才で失い、その後叔父を頼って豫章から、荊州に住むがここで兄とは別れた。
兄は襄陽へと移り住み、諸葛均は一人荊州に残り、役所の一文官として務めていた。
劉表が死に、その相続争いのさなか、職を失った諸葛均を兄である孔明が呼び寄せたのであった。
劉備は諸葛均のことを知ってはいたが成長した彼をみて驚いた。
ここまでそっくりだとは思わなかったのだ。
孔明はこの相似の弟を自分の影武者として使っていた。
劉備はそれを知っていて、諸葛均を校尉に任命した。

「私を呼びつけたのは、何かご用があるからでしょう?兄上がただ私に会いたくて使いの者をよこしたりはしないでしょうから」
弟の言葉に孔明は苦笑した。
「・・・・言い訳はしないよ、その通りだ。私の目になって欲しい」
「兄上。この度の戦のことは聞き及んでおります。曹操軍は30万とも50万とも言います。勝てる見込みはあるのでしょうか」
「均。戦をするのは私ではなく東呉の孫軍だよ」
「しかし、孫軍が負ければ兄上のご主君も困るのではないですか?」
「もちろん。だが東呉は負けないよ、おそらく」
「なにか根拠がおありですか?」
「そうだな・・・・しいていえば周都督かな」
「周都督・・・・周公瑾どののことですね」
弟がその名を知っていることを孔明は嬉しく思った。
「そうだよ」
「どのような方なのです?」
「遭ってみればわかるよ。・・・じつはおまえに頼みたいのはその周公瑾どののことなのだ」
「なんです?」
「周公瑾どのを攫ってきて欲しい」
諸葛均は一呼吸おいて驚愕の声をあげた。兄が何を言っているのか、理解できなかった。
「なんですって!?」

諸葛均がおどろくのも無理はなかった。
孔明は懐から包みを取り出した。
「これを使うと良い」
孔明から受け取ったものを手に取ってみた。
「これは・・・薬?一服盛るということですか?」
「どのように使ってもらっても構わない。ただ、量には気をつけて欲しい。使いすぎると廃人になるやも知れぬ」
「・・・・兄上は何を考えておいでなのです」
兄らしからぬ行動に弟は異議を訴えているようだった。
「おまえは何も知る必要はない、均。ただ攫ってくるだけでよいのだ」
「・・・・・兄上はどうなさるのです」
「もうじき、風は吹くだろう。そうしたら私はその日の朝一番の船で夏口に戻る。おまえは私のふりをして周公瑾の船に乗れ。そして戦の隙に攫うのだ」
「脱出は・・・・?」
「趙子龍を向かわせる。彼は私だと思っているから充分に気をつけるようにね」
諸葛均は無言で手の中の薬を見つめた。

兄が一体どうして周瑜を攫ってこいなどというのか、彼にはさっぱりわからなかった。
その理由を、自分の目で確かめようと思った。
「兄上は今夜ここへお泊まりになられますか?」
「ん?なぜだ?」
「周公瑾を攫う前に、どのような人物かを見ておきたいのです」
「・・・・・いいだろう。しばらく私のふりをするといい。私は主君にあてた手紙を書き上げねばならないことでもあるし」
「では・・・」
「均」出ていこうとする諸葛均を孔明は呼び止めた。
「はい」
「周公瑾に深入りするでないぞ」
「・・・?」諸葛均は兄の意図するところが飲み込めないまま庵を後にした。
 

しかし、兄の言葉の意味を理解するのにそう時間はかからなかった。

孫軍の幕舎に戻った諸葛均は、さっそく周瑜の幕に出向いた。
幕の入り口には見張りの兵が立っていたが、兄は周瑜が倒れたままだと言っていたので見舞いに来たと告げ、軽く挨拶をして中に入った。
幕の中は薄明かりが灯っており、しつらえた牀台の上にその人はいた。
「・・・・何か用ですか」
張りのある、凛とした声だった。
諸葛均はその人に近づき、顔がよく見える場所に立った。
「・・ただのお見舞いですよ」
「・・・どうだか。また何か企んでいるのでしょう?」
これが周瑜公瑾か。
長く黒い髪は降ろされ、首筋に数本の髪がまとわりついていた。
少しだけ紅潮した頬がなんともいえない色香を感じさせた。
諸葛均は人知れず胸をときめかせた。

今目の前にいるのは本当に男なのだろうか?
この時の諸葛均は周瑜が女だということを知らなかった。

周瑜は上半身を起こした。
「あなたがいると眠れないのです。それに着替えをしたいので出ていってもらえませんか」
「着替えをするくらい、別にいいでしょう?」
諸葛均は屈託なくそう言った。
しかしそれを周瑜は、あたりまえだが別の意味で受け取っていた。
「・・孔明どの。あなたは何か勘違いをしていらっしゃるのではありませんか?私はあなたの妻ではないのですよ」
少し怒ったような口調だった。
諸葛均は驚いた。
それではやはりこの人は女なのか。
慌てて彼は先ほどの発言を訂正した。
「ああ、そうでしたね。すみません、気が利かなくて」
「・・・・・?」周瑜は少しいぶかしげな顔をした。
「それとも着替えを手伝いましょうか?」
諸葛均はそう言った。
兄ならばそのくらいのことは言うだろう、と思ったのだ。
「・・・・遠慮しますよ。あなたも存外、俗な事を言うのですね。・・・私はあなたが嫌いだ、と言いませんでしたか?」
この綺麗な顔でよくも悪態をつくものだ。
諸葛均はくすくすと笑った。
「・・・・何がおかしい?」
「すみません、あなたがあまりにも可愛いもので」それは本心だった。
「・・・・無礼でしょう。そのような言い方は」
「不愉快になられたのなら謝ります。・・では一時、退散するといたしましょう」
だんだん不機嫌になっていく周瑜を後に、幕を辞した。

諸葛均はこれまでに味わったことのない、甘い痛みを感じていた。
「・・・ここへ来て、良かった・・・兄上に感謝しなくては」


諸葛均はしばらく周瑜を遠目で見ていることにした。
体調が悪いと聞いていたが、少しは顔色も良くなってきたようだ。
それにしても、周瑜に近づくのに邪魔な者が2名ほどいる。
呂蒙と徐盛である。

周瑜を攫う時にあの二人をなんとか遠ざけなければならない。
諸葛均は軍議の時、さりげなくその二人を別々の部隊に編成するように話を進めさせた。
とにかく数の上で圧倒的に不利な孫軍にとってはごく自然に決まった人事であった。

諸葛均は一人ほくそえんだ。
兄がいなくても、充分思い通りに行くではないか。
そう密かに思いながらすぐ隣にいて地図を眺めている周瑜に目をやった。
細くしなやかな指で地図をたどっている。
知れば知るほど、好きになった。
きっと兄もこの人を好きなのだ。


そんなとき、孔明から書簡がきた。
そこには諸葛均を煽るような文句が書かれていた。
「周公瑾に近づきすぎるな。おまえには荷が重過ぎる相手だ」と。
諸葛均はそれを笑って破り捨てた。
兄の嫉妬をかっているのだ、と思った。
「荷が重過ぎるかどうか、試してみなければわかるまいに」
諸葛均にはそれが心地良かった。
いつも自分を見下していた兄に、一矢報いる良い機会になるやもしれない。
そう考えるとぞくぞくした。

諸葛均が兄と荊州で別れたのは、兄と比べられ続けた自分の自尊心のためであった。
もちろん、そんなことは兄は知らない。
荊州に残る、と言い出したとき、兄はたいそう怒ったものだ。
叔父の遺産を継ぐ形で荊州に残ったので、兄は自分より財産を選んだ、と思われたのかもしれない。
だが、どうしても、あの兄と離れたかった。
自分自身の才覚だけでのし上がりたかった。それで暗愚といわれた劉表一族の元に仕えた。
それを兄がよく思っていないことは知っていた。
だがこうして自分を迎え入れてくれた。
それがたとえ兄の身代わりとしてでも。兄は自分を少しなりとも認めてくれたのではないか。
劉備は兄を高くかっている。
その兄に自分が取って代わってやる。
手始めに、兄の想い人を奪う。
これ以上の喜びがあるだろうか。

そして。
決行の時。
まんまと薬をかがされた周瑜は孔明になりすました諸葛均によって、拉致されてしまったのだ。


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