(13)甘興覇





出発の準備をしていた呂蒙のところへ、甘寧がやってきた。
そして先ほど程普の天幕の前で聞いたことを糾すのだった。
「おまえ、さっきはとぼけたが今度は逃がさねえぞ!都督が攫われたってのは本当なんだな?!」
いきなり甘寧に胸元を掴まれ、むせて咳き込んだ。
「ほ、本当、だ、うっ・・・わかったから、放せって!」
甘寧が素直に放すと、呂蒙は呼吸を整えて、自分がしっている周瑜が攫われたいきさつを話した。
「しかし、わからん。なぜそいつは戦の最中に都督を攫って行ったりするんだ?」
「・・・・さあ」
甘寧はその呂蒙の顔を見て、「はは〜ん」と笑った。
「な、なんだよ・・」
「子明、おまえ間者にはむかねぇな。隠し事ができねぇタチだ。知ってるんだろ?都督がなんで攫われたのか」
「・・・・・・・」
「言えよ」
「・・・・ダメだ。それは・・・知っていたとしても言えん」
「ちっ。何も一人でしょいこむこたぁないと思うがね。ま、いいか。とにかく都督は夏口にいるんだな」
そこへ、徐盛が息を荒げて走って報告に来た。
甘寧を横目に見て、呂蒙は徐盛に向き直った。
「どうした?文嚮」
徐盛は夕べから寝ずに烏林から漢水のあたりに偵察に出ていたのだ。
「・・・・馬が、夏口城の馬が曹軍の方から1頭逃げてきたのです」
「?」呂蒙は徐盛の言わんとしている事が飲みこめなかった。
「その馬には縄が縛り付けられており、鞍には薄物の女の袍が残っておりました」
「女の袍?・・・・なんだそりゃ」
甘寧にはさっぱり話が見えなかった。
徐盛は甘寧に気を遣って、魯粛に報告に行く、と言ってその場を離れた。
「待てよ、夏口城の馬がなんで曹軍から逃げてくるんだ?それも1頭だけなんて。おかしいじゃないか」
甘寧は顎に手をあててしばらく考えていた。
「なあ、子明。今の話って夏口城から誰かが馬に乗って逃げ出したのが曹軍にとっつかまったっていうことじゃねえのか」
呂蒙は甘寧の話しを聞いて大きく頷いた。
「しかし女ものの着物っていうのが解せねぇな。逃げたのが都督だとして、女装でもしてたってのか?」
そう言って甘寧は軽く笑う。
しかし呂蒙は硬く口を引き結び、にこりともしなかった。
劉備のもとにいるのであれば、取り返す事も容易だったはずだが、万一曹軍の手に落ちたのであれば命の保証すらない。
ただ、ひとつの救いは女の格好をしていたとすれば周瑜の素性がバレない可能性があるということだ。
今となってはそのことは救いのひとつだが、そもそも周瑜は孔明のもとに捕らわれていたはずで、そこで女物の着物を身に付けさせられていたと言う事がどういうことを意味するのか、呂蒙は考えたくもなかった。



「やはり烏林には戻っていなかったか」
孔明は烏林の孫軍の様子を探らせていた兵の報告から、周瑜が孫軍に戻っていないことを知った。
「孔明さま・・・それはどういうことなのでしょうか」
月瑛はおそるおそる訊いた。
「馬だけが曹軍の駐屯している華容近くから戻ってきたと言うのだ。曹軍に捕らわれたとみるべきだろう」
「なんということ・・!」
月瑛はショックを隠しきれなかった。
「おまえが余計なことをしなければ、私はあの人を孫軍に帰すつもりだったのだがね。今となってはしかたがない・・・」
孔明は月瑛のしたことに少しは怒っていたようであった。
それを聞いて月瑛はうつむいて肩を震わせるだけだった。
「とにかくこのことを孫軍に知らせてやろう。しかし、江陵の南郡の城の北西に夷陵、さらに北には襄陽の樊城という城もある。一体どこの城に連れて行かれたのか見当がつかないのが問題だが」



呂蒙は迷っていた。
周瑜の秘密を知っている一人である呂範は今は水軍をたばね、孫権の元に戻っていてここにはいない。
周瑜が連れ去られたことを説明するのに、この秘密を話したほうがよいのかどうか、呂範がえれば相談したかった。
程普は昔から周瑜と仲がよろしくない。こんなことを言って、その仲が取り返しのつかないほどこじれてしまったら、どうしよう、という心配もあった。
徐盛にそれを相談しに行こうと訪ねたが、魯粛のところにいるというのでそちらに足を向けた。
魯粛の陣舎には徐盛の他に程普、韓当、甘寧がいた。そこへ周瑜が曹軍に捕らわれているらしい、という連絡が孔明から届いた。
さすがに魯粛の顔色が変わった。
あの戦いで味方に大きな被害を出した敵の都督をむざむざ生かしたりはしないであろう。
実際、周瑜の用兵は見事であった。
人材収集家の曹操のことだから、周瑜を幕僚に加えたいというのが本音ではあるだろうが、部下の手前それはできないであろう、というのが魯粛の読みであった。
「・・・・・とても無事でいるとは思えぬ。・・どうしたものか」
魯粛は深い溜息をついた。彼は10年以上前からの周瑜の友人である。
「しかし、曹軍は公瑾どのとは知らずに連れ去った可能性もあります」
呂蒙は慎重に言った。
「・・・・・・しかし、解せぬ。曹軍はなぜ公瑾どのを連れ去ったのか。こんな戦場近くに一人でいたら間者と疑われて斬られるのが普通だ」
程普が難しい顔をして言った。
「徳謀どの」
そこへ徐盛が口を挟んだ。
「馬には女物の着物がありました。おそらく怪しまれないよう都督は女装して脱出したのです。曹軍は都督を女と思って連れ去ったのでしょう」
「・・・・・・そうか!それならばわかる」
「ですから、その正体がバレる前に一刻も早くお助けしなければなりません」
「ならばすぐに江陵攻略へ出立する」
「お待ちを」
程普は口をはさんだ甘寧を睨むように見た。
「江陵の北に夷陵という城があり、曹洪がそこにいると報告があります。都督がそちらにおられるという可能性もあるのでは?」
「・・・・たしかに。しかし目的は公瑾どのの救出のみにあるわけではない」
程普のそのものの言いようが甘寧には気に入らなかった。
「では俺に三千の兵をお与え下さい。夷陵を落としてまいります」



夷陵城には曹操の従弟である曹洪が陣を張っていた。
曹仁の部下である牛金は伝令として夷陵に行っていた。
その途中で周瑜を拾い、夷陵城に連れかえった。
女を連れかえった牛金を他の武将たちはやっかみ半分でからかった。
「それは丞相への手土産のつもりか」
曹洪にそう嫌味を言われても牛金は何も答えなかった。
城の一室で目を醒ました周瑜は状況がよく飲みこめなかった。
見知らぬ天井、見知らぬ部屋。
おまけに鉛のように体が重い。
起きあがり、部屋を出ようとしたとき、牛金と出会ってしまった。
「・・・・?」
「そなた、名はなんという?どこからきた?」
牛金は周瑜の腕をとってかえした。
「・・・・・・」周瑜は答えずうつむくだけだった。
「口がきけぬのか」
牛金は周瑜の顎をとって上をむかせた。
「・・・美しい」
牛金はそう言うと周瑜を抱き寄せた。
「そなたがどこから来たのかは知らぬがこの夷陵城に連れてこられたからにはもう戻る事はないと思えよ」
(夷陵城・・・・・ではここは曹軍陣中か。私は・・・馬上で気を失ってしまったのか)
自分のおかれた立場を知って、周瑜はうなだれた。
(一体私は・・・・どうすれば)
自分がここにいることを知るものはおそらく他にいまい。
周瑜は、その形のいい唇を噛んだ。





「俺が必ず都督をお助けする」
甘寧はそう言って魯粛の陣舎を引き上げた。
呂蒙はあわててその跡を追った。
「おい。興覇、あのいい方はないだろう!徳謀どのの機嫌を損ねたぞ」
「別に構わないさ。俺は俺の仕事をするだけだ」
「俺も行く。都督を心配してるのはおまえだけじゃないんだ」
「いいけど、俺の指揮に従ってもらうぞ」甘寧はふっと笑った。
「ああ。江陵には5千の兵を残して行くそうだから、かまわんだろう」
甘寧は後ろを振り返り、呂蒙を見た。
「子明。おまえ、まだ何か隠してるだろ」
呂蒙はそれへ、咄嗟に首を横にふった。
甘寧はまたははは、と笑った。
「だから言ったろ、おまえは間者にむかねえって。さっき徳謀どのが都督がなんで攫われたのかって話してたときのおまえの顔。何か言いたくて仕方ねえってカンジだったぜ」
「そ、そんなことはないさ」
「これは俺のカンだが、あの徐文嚮ってヤツ、あいつも知ってるな」
「はい」
「わっ!」呂蒙は自分の真後ろから声がして驚いた。
甘寧に応じたのは呂蒙の後ろからついてきた徐盛だった。
「ぶ、文嚮・・・!おどかすなよ」
「申し訳ありません。しかし呂子明どの、甘興覇どのにはお教えしても構わないと私は思います」
「・・・・・」
「おぬしは話しがわかるようだな」
「・・・・わかったよ。文嚮までがそういうのなら。ここではなんだ、俺の幕に行こう」


呂蒙が話しを始めると甘寧は一言もしゃべらず腕組みしたままじっと聞いていた。
「・・やっぱりそうだったのか」
「気づいていたのか?」
「・・・まあ、うすうすはな。あの人は男にしちゃたおやかすぎるんだ」
「興覇よ。そういうわけだから一刻も早く都督をお助けしなければならないんだ」
「わかってるって。明日早朝に出立するが、そのうちの1千を先乗りさせて奇襲をかける。その勢いをかって一気に城を落とす」
「それは危険ではありませんか」徐盛は危惧をそのまま口に出した。
「危険がなんだ。おまえ、都督が曹軍のやつらに犯られちまってもいいってのか!?」
「興覇!口を慎め」
「・・・・・」徐盛は膝に固く握った手を震わせた。
「だいたい、夷陵にいるとは限らないだろ。南郡の城の方にいるとしたら、手っ取り早く夷陵を落として敵の数を削っとかなくちゃならん」
「それはそうだが・・」
「心配性だな。じゃあ、子明に後詰めを頼む。なんかあったら助けにきてくれよ」
甘寧は軽く笑って言った。


(14)へ続く