(19)落着


周瑜邸では、旅の準備がせっせと行われていた。
孫権の了承もおりたので、あとは準備ができ次第移動するだけだ。
移動には船を使うので、既に柴桑の津に、軍船に混じって商船を改造した客船と護衛船の露橈が数隻係留されている。
周瑜の指示があったので、ようやく船に荷物や食糧を積みこみ始めたところであった。

そこへ、周峻が訪れた。
周瑜は牀台にいて、体を起こしたまま周峻に面会した。

「叔父上、お加減はいかがでしょうか」
「おお、子厳殿か。元気にしていたか?」
「はい、叔父上のおかげを持ちまして」
「そうか、今はどこの所属だ?」
「あの、それが、ですね…実は」
周峻は自分が孫権の勅命により都尉に任命されて、周瑜の護衛に着くことになったのだと言った。
それへ、周瑜は少しも驚いた様子もなく、「ふむ」と言ってなにか考えていたようであった。
「あの、叔父上…?」
「ああ、いや、何でもない。しかし、いきなり都尉とはまた、えらく出世したものだ」
「叔父上のおかげです。私などは何の手柄も立てておりませんのに、このような身に余る身分をいただきました。このうえは粉骨砕身、任務を務めてまいります」
周峻は丁寧に礼をとった。
周峻には、周瑜が女であるという意識は全くない。
それまでにもいろいろと噂は聞いていたのだが、実際に会ってみて、自分の思っていた理想の人そのものだったことに驚いた。
だから周瑜を叔父と呼ぶことに何ら違和感を感じないのであった。

「主公から何か言いつかってきただろう?」
周瑜は周峻をじろり、と見て言った。
「はい。叔父上の身の回りの警護を申しつかりました」
「それだけか?」
「あ、あと、叔父上の容体を逐一報告せよと」
「どんなことでも漏らさずに?」
「は…、はい。そのように仰せでした」
「ふぅん、やっぱりか」
「あの、それが何か…?」
「いや、主公も心配症なことだと思ってね」
「私もそのように思いますが、それだけ叔父上を大切に思っておられるということでしょう」
「…ふむ」
周瑜はその意味を周峻のように単純には考えていなかった。
「早速ですが、叔父上、何かお手伝いをさせてはいただけませぬか」
周峻が張り切ってそう言うので、周瑜は一旦考えるのを止めた。
「そうか、ではさっそく働いてもらおう」
周瑜はそう言って、彼に護衛船の指揮を任せることにした。



「義叔母上、そのようなことは私が」
小喬が飲料用の水を大瓶から桶に移し替えていたのをみて、周瑜の部屋から出てきた周峻が飛んできた。
「あら、ありがとうございます」
「いえ。これで湯を沸かすのですか?」
「ええ」
「では厨房までお運びします」
女性に優しいのは周家の躾なのだろうか、と小喬は密かに思った。

周峻は、ずっと訊きたいと思っていたことがあった。
自分が初めて周瑜の身の上を知った時の驚きを考えるにつけ、ではその周瑜と「婚姻関係にある妻」とはどういう女で、何を思ってそうしているのか?
周峻にも妻と子がいるが、明らかにその関係とはまったく別なのだろう、と想像する。
では周瑜の子供は一体誰が誰との間に産んだ子なのか、そのあたりのことはさすがに本家の大叔父も教えてはくれなかった。
彼なりに推測するに、周家の親戚筋から迎えた養子なのだろうと勝手に思っていた。
彼は、孫家先代の話はまったくと言っていいほど知らないのだから無理もない。
小喬はこうしてみると、別段変ったところもない、美しい女性である。
甲斐甲斐しく周瑜の世話を焼き、明るく朗らかで時々勝気な面も見せる。
一見、普通の貴人の妻となんらかわりはないように見える。

周峻はひとつ、咳払いをして呼吸を整えた。
「あの、義叔母上」
「はい?」
「あの…その…お、義叔母上は、叔父上のことを…その…」
口ごもってなかなか言葉をはっきり言いだせない。
こんなことを聞いて、義叔母の不興を買ってしまったらどうしよう。などと、今頃になって彼は悩んでしまっていた。
「子厳殿のおっしゃりたいことは、わかっていますわよ」
聡い小喬は周峻の言葉を先回りして導いてやろうと思った。
「えっ?あの…」
「…私たちのことは、普通ではないと思っていらっしゃるのでしょうね」
「え、あ、あの決してそのような」
「いいのですよ。いつか、私と姉が孫軍の虜になったとき、あのままならば私は自害していたかもしれません。姉と違って、ひどく…抵抗しましたから。あの方に刃を向けたのですよ。何も知らない小娘だったのです。本当なら処刑されてもおかしくなかったのに」
周峻にとっては初めて聞く話だった。
このおとなしやかで朗らかな人が、あの周瑜に刃を向けたとは、俄かに信じがたいことだった。
「でもあの方はそうしなかった。世を欺くとわかっても、私を妻として庇ってくださったのです。そして、そののち、あの方は私に、好きな殿方が出来たらいつでも家を出て行って良いのだ、とおっしゃいました」
「…なるほど、そういう経緯だったのですか」
周峻は納得した。
要するに、周瑜は処刑されるかもしれなかった小喬を保護したに過ぎないのだ。
「ええ。でも私、お傍に置いてくださるようにお願いしましたわ。だってあの方以上に素晴らしい殿方なんていませんもの」
小喬はそう言って微笑んだ。
「確かに」
周峻は素直にそう思った。
周峻の贔屓目なしに見ても、周瑜という人は美しく優雅な物腰の貴人である。
年頃の娘ならば夢中になっても仕方のないことだろう。

「でも、これだけは覚えておいてくださいね。人には、男女の繋がりだけにとどまらない縁がありますのよ。確かに、あの方は男性ではありませんが、もうそのようなことはどうでもよいことなのです」
「はあ…」
わかったような、わかっていないような。
周峻は微妙な表情をした。
それをみて、小喬はころころと鈴のように笑った。
「子厳殿のような若い殿方には難しいかもしれませんわね」
「そういうものでしょうか」
彼からみても小喬はまだ十分に若い。
だが、彼女にとっては自分は甥なのだ。
それに周峻にだって妻子があるのだが、小喬にとっては彼は所詮若輩なのだ。



周瑜は外套を羽織って邸の庭を歩いていた。
この数日は天候に恵まれ、庭の玉蘭花がその大きな白い花びらを広げていた。
野鳥が飛んできては木の枝に止まっていく。
その美しさと香りにうっとりとする。
花を愛でるなど、何時以来のことだろう。
思えば随分殺伐とした人生を送ってきたものだ。
そういえば、循を産んだのもちょうど花の季節ではなかったか。
…そう、そしてあの人が亡くなったのも。
周瑜はそっと目を閉じて嘆息をつく。
失ったものもあれば得たものもある。
人とはそういうものなのだろう。
そしてまた-
周瑜は自分の腹部に手をやった。
もともと痩せているため、こうして外套を羽織ってしまえば妊娠していることなど誰に気取られる心配はないだろう。
だが。
孫権がわざわざ周峻を寄越したところをみると、やはり疑っているのだろう。
あのとき周瑜は、「女のかかる病」などと言ったのだ。そういう解釈をして当然だ。
それにしても、この人選は、なんという気の遣いようだろう。
周瑜はフッと笑みを漏らした。
「主なのだからはっきりと私自身に問えばよいのに」
そう独りごとを言った。
問われたところで、相手の名を言うわけにはいかないのだが。
言ったところで信じるものでもない。
あれは今頃涼州にいるはずの男だ。到底考えもつかぬ相手である。
南郡で会ったのが奇跡なのだ。

遠からず、漢中にも曹操軍は進軍するだろう。
そうなれば涼州にいる彼らも動くだろう。
涼州の騎馬は強いと聞くが、はたして曹操と戦って勝てるだろうか。
いつかの馬超は、兵は強いが智将がいない、とぼやいていた。
狡猾な曹操のことだ、策を用いて足元を掬おうとするだろう。
力になってやりたかったが、今の自分ではどうにも動くことができぬ。

遠く離れた男のことを心配している自分に気付いて、苦笑する。
存外、自分も普通の女のようだな、と思った。
もし彼が自分の子を宿していると知ったらどうするだろう?
あの時毎日のように耳元で囁いたように、今度こそ彼の地へ連れ去ってしまうだろうか。
いっそそうできたら楽なのだろうが、とも考えた。
だが、この身はどこへ行ってもこの地とともに、いや、孫伯符の魂とともにありたいと願うだろう。
そこまで考えて、ずいぶん思考が脱線してしまったな、と自重する。

このような身持ちでなければ、今頃は益州の山を駆け抜けているころだったろうか。
もしかすると劉備の軍と戦の真っ最中だったかもしれぬ。
行軍のさなかにこのようなことにならなくて良かったのかもしれない。
徐盛の言った通り、天命だったのか。


彼のことはともかく-。
子を孕んでいることを孫権に伝えるべきなのかどうか。
事実を知ったら、孫権はどうするであろう。
自分を不義の女とそしるだろうか。
それとも…。
周峻を寄越したのは、相手が誰だかを知りたいからではないのか。
身内なら迂闊にしゃべってしまうこともあるのではないか?との思いもあるのかもしれない。
ふと、もし相手が陣中の誰かであった場合のことを考えた。
孫権のことだ、詰問して返答次第では斬って捨てるやもしれぬ。

(徐文嚮がいなくて良かった)
周瑜はほっとした。
もし、彼がいたら、孫権に呼び出され、問い詰められたことだろう。
そして決して彼は口を割らない。
ヘタをすれば自分が腹の子の父である、などと言いかねない。
もしそうなったら何をどう言い訳しても徐盛は殺されるだろう。
孫策の時代から周瑜の警護を任されてきた臣下の身でありながら、その上官に手を出すことなど、孫権が許すはずがない。
周瑜はかすかに肩を震わせた。
彼が山越討伐から戻るまでにこの件はなんとか片をつけておきたいところだ。
そのためには、やはり孫権に真実は言うわけにはいかない。
ここはひとつ、周峻をなんとかいいくるめて孫権を欺くしかない。
周瑜は考えをめぐらせた。


その頃、呂蒙と甘寧は孫権に謁見していた。
同席するのは二張と厳o、それに諸葛瑾である。
呂蒙は事の次第をすべて孫権の前で明らかにした。
それを聞いても、孫権は驚かなかった。
その反応を見て、孫権が事情をすでに承知していたことを知った。
そのことを呂蒙が指摘すると、孫権は頷いた。

「そうか、ではその徐顧、宋定の二名が主犯か」孫権の問いに、
「それと成当なる者がまとめ役と思われます」と呂蒙が答える。
諸葛瑾は魯粛に竹簡を渡した本人であるから、そのことの次第をも説明した。
「彼らの下に兵が十数名おりますが、いづれも自らの意志では何もできぬ者たちばかりです。おそらくは扇動されて流れに乗ってしまっただけでしょう。そんな彼らには結束もなにもなく、このように密告が相次ぐ次第です」
「ふむ」
孫権は顎髭をなでる仕草をしながら言った。
「普通なら死罪だな」
そこへ、張昭が意見する。
「殿、こたびのことはたしかに悪事ではありますが、それも国を憂いてのこと。劉備などと同盟をしたは良いが、都合のよい注文ばかりもってくる客のようでもありますな。それをよく思わぬ者どもがいても詮無きことです。なにとぞ寛大なご沙汰を」
呂蒙もそれに同調して恩赦を願い出た。
「私からもお願いします。そもそも彼らが魯子敬殿を狙ったのは、周将軍に毒を盛ったという噂を信じてしまったからです。そんな噂を流した本人がだれやもわからぬ状態で罰せられず、彼らのみ罰するのは平等とは言えません」
もう一人の二張のかたわれである張紘も同意した。
「彼らの気持ちもわからんでもない。このところ大きな戦もなく、閉塞感があるのだろうて」
更にその言葉に乗っかったのは甘寧だった。
「そうそう、そんであいつら、俺にあの例の周将軍の策を替わって実行しろ、と言ってきやしたぜ」
孫権は甘寧を見た。
「…ほう?それでおまえはなんと答えたのだ?」
「もちろん断りましたぜ。あの策は俺じゃ無理だ」
「はて、なぜおぬしでは無理なのだ?」
「俺には周将軍のような人望はありません。そんなことはわかってる。今回のようなことをしでかした兵たちをうまくまとめて何年も遠征して、そのうえ北方の騎馬民族の頭と同盟だなんて、俺にはできっこありませんよ。むしろ喧嘩になっちまうかもしれません」
づけづけと物を言う甘寧に孫権は苦笑する。
「俺は奇襲が得意な戦屋ですぜ、あんまり重たいもんを背負わせないでほしいもんです」
この甘寧の不遜な態度に、張昭はこほん、こほん、と咳払いをして言った。
「あー、いや殿、甘興覇の言い分も尤もです。あんな策は周公瑾でなくては思いつきもしませんぞ」
張昭の言うことにも一理ある、と孫権は頷いた。
「ではどうするのが一番良いと思うか、曼才」
それまでじっと口を挟まず話をきいていた厳oは孫権に意見を求められて初めて口を開いた。
「彼らも我が軍の兵なれば、それにふさわしい働き場所を与えればよろしいでしょう。将兵が暇なのは良いことですが、平地に乱を起こすくらいならばむしろ邪魔でしょう」
「ふむ。それは当然のことだな。では働いてもらう地はどこが良いか」
「儒須口はいかがでしょう」
提案したのは呂蒙だった。
「殿が、かの地に塞を築こうとなさっていると周将軍から伺っています。そのための人員として派遣してはいかがでしょうか」
「ほうほう、それならば全員まとめて送ってしまえばよろしいな」
張昭は手を叩いた。

「てぇことは、だ」
甘寧が口を挟んだ。
「特に奴らを呼んで罰する、ってことはなしってことになるんですかい?実際、奴らは魯子敬殿を襲っているってのに?」
「不服か?」
孫権は言った。
「処分はいいとしても、責任は取らせる方がいいと思うんですがね」
「興覇、魯子敬殿のことを考えての御沙汰なのだ。わからんか」
呂蒙は甘寧をたしなめるように言った。
「魯子敬殿はことを公にしたくないと、怪我のことも伏せている。それをわざわざ堀起こすこともあるまい」
「だが罪は罪だ。罪を犯しても罰せられないとなれば奴らは増長するぞ。俺は軍にいる者として看過できないんだ」
「それは尤もだが…」
呂蒙は考えた。
甘寧の言うことは正しい。
だがそれを通せば魯粛の志を無にしてしまう。
なんとかできないものか、と。

「上官を闇討ちするなど、軍規が緩んでいる証拠ですな」
厳oが皮肉たっぷりに言った。
「周公瑾が病で倒れたことがよほど響いているのでしょう。彼の不在の穴を埋めるのは並大抵なことではない」
諸葛瑾がそう請け合った。
「だがこのままでは立ち行かなくなりますぞ。せめて代行を立てねば」
厳oの言葉に、周瑜から後継に魯粛を指名したことを聞いている孫権、呂蒙は思わず口ごもった。
この場ではまだ発表すべきではない、と孫権は判断した。
「曼才、今はそのことは置いておけ。先に決めねばならぬことがある」
「は、差し出がましいことを申しました」
厳oは孫権にたしなめられ、頭を下げた。

「魯粛は豫章郡へやることにした」孫権が全員の顔を見渡しながら言った。
このことは既に宿将には知れ渡っていた人事ではあった。
「彼らのことがなくても、今の我が陣営にはあやつをよく思わぬ者がおることは事実だ。少し間をおいてほとぼりを冷ます方がよいと思ってな。だが、興覇の言うとおり、彼らを罰しなければまたいつ誰かが闇討ちに合うやもしれん」
「殿…」
呂蒙は心配そうに孫権を見た。
「曼才、陳武を呼んでまいれ」
「はい」
孫権に言われ、厳oは席を立って出て行った。
「陳子烈を呼んであったのですか」
呂蒙は意外に思った。
「うむ。その方らから申し出があった際にな、隣りの室に待たせておった」
甘寧は「さすが殿」と称賛した。

しばらくして陳武が厳oとともにやってきた。
孫権に言われ、席に着くと、厳oから話は聞いたという陳武は背筋を伸ばして全員の顔を見渡した。
「この件に関しましては某に一任していただきたい」
そう、はっきりと言い放った。
「殿の御沙汰が下った以上、あとはその手続きを実行するだけですので」
「手続きとは?」
甘寧がいぶかしそうに訊いた。
「全員を逮捕して隔離し、話を聞いた上で本来ならば死罪のところを、殿の温情を持っての御沙汰があったことを告げるのです」
陳武は呂蒙の方を向いて更に言葉を繋いだ。
「そして、この件について口外しないことを条件に放免してやるつもりです。その後の人事については某の関与するところではございません」
陳武は呂蒙にも配慮をみせた。
それがわかって、呂蒙は陳武に頷いてみせた。
「ではまずは彼ら一味を逮捕、収監し、罪を認めさせること。軍規に則り棒罰百回を命じ、その上で口止めし恩赦と称して放免したのち、全員を儒須口へ派遣する。皆、それで異論はないな?」
孫権が一同を見回して言うと、その場にいた全員は頷いた。
「よし、ではこの件はこれまでだ」
孫権は席を立った。

これでやっと片がついた、と呂蒙は安堵の吐息を漏らした。
その様子を見て、甘寧は口の端で薄く笑い、呂蒙の肩を軽く叩いて彼を労った。



解散となった後、呂蒙は陳武を呼びとめた。
「すまんな、いろいろと」
「いえ、それが某の務めです」
呂蒙はそれ以上何も言わず、陳武の腕をぽん、と叩いた。
陳武は自分の前を通り過ぎようとした呂蒙を呼びとめた。
「あ、あの呂将軍」
「ん?」
「あの…」
陳武は何事かを呂蒙に言いたかったのだろうが、なかなか二の句が継げない。
「なんだ、はっきり言え」
「あ…いえ、何でもありません」
呂蒙ははっきりしない態度に、少し苛立った。
「言いたいことがあるんだろう?遠慮せずに言ったらどうだ」
「あ…はい」
心なしか、大きい図体が小さく見えた。
「あの、し、周将軍のことですが…お体の具合はどうなのか、呂将軍はご存知なのかと思いまして」
「ああ…」
呂蒙は納得した。
周瑜のことになると、昔からこうだった。
こういうところは相変わらずなんだな、と苦笑しながら呂蒙は答えた。
「だいぶ快方には向かっているようだが、療養に専念するので都を離れるようだ」
「そ…そうですか…」
陳武は安堵したような顔をした。
それを見て、呂蒙は少しいじめてやりたくなった。
自分は周瑜が去ることで心を痛めたというのに、陳武はそうではないように思えたのが少し悔しかったからだ。
「もうこちらには戻っては来られないかもしれん」
「えっ…?」
陳武は目を見開いた。
「そ、それは本当ですか?なぜ、戻って来られないのですか?やはりそれほど悪いのですか?」
陳武はその強い力で呂蒙の肩を掴んだ。
しまった、余計なことを言ってしまった、と呂蒙は悔んだ。
「あ、いやすまん、それくらい長く療養されるかもしれん、ということだ」呂蒙は取り繕った。
「…そうですか」
陳武は納得したのか、呂蒙の肩から手を離した。
呂蒙はふう、と息をついた。
「そんなに気になるなら見舞いに行けばいいだろうが」
呂蒙の言葉に、陳武は胸を詰まらせた。
彼の事情はごく個人的なもので、誰も知らない。
だが、あのとき、彼は決めたのだ。
二度と周瑜に会わないと。
同じ都にいるときですら、遠くから姿を見るだけだったのだ。
そしてその誓いを破るわけにはいかなかった。
陳武は無言で首を横に振った。

「いえ、失礼いたしました。某は早く良くなっていただきたいと願っているだけです」
陳武はそう言って、去って行った。




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