(4)予兆


「おまえ、いつまで戦場にでるつもりなんだ?」

いつか、孫策がそう訊いた。

「さて。命数が尽きるまででしょうか」

そう答えた。

「・・・ずっと訊こうと思っていたんだが、おまえは何のために戦う?」
「何のため、とはまた意外なことをお訊ねになりますね」
「俺のため、か?」
「他に何がございます?」
「では、もし俺が死んだらどうする?それでもまだ戦に出るのか?」
「縁起でもないことを言わないでください」
「もしも、の話しだ。答えろ」
孫策は真顔で言った。
「もし、の話しでも、考えたくはありませんがね。・・・もしそうなったら、伯符様が遣り残したことをやって差し上げたいと思います」
「ほう?」
「どなたが跡を引き継ぐことになっても、それだけは叶えたいと考えます」
「・・・俺がいなくなったあとも戦に身を投じるということか」
「それしか、できませんから」
孫策はフッ、と笑った。
「おまえは不器用だな」
「そうかもしれませんね」
「・・・まあ、俺からはもうおまえにとやかくは言わん。ただ、体をいとえよ」
孫策の言葉に、ただ俯いただけで、何も言わなかった。

本当は、

孫策がもし、死んだら?
そんな質問には答えられない、と思った。

なぜなら、彼の死は自分の死でもあるのだから。


・・・・・・・。

・・・・。



少し、肌寒い朝であった。
寝台から身を起しても、しばらく動けない位の、けだるさを感じていた。

このところ、あまり見なくなっていた夢を、久しぶりに見た気がする。
-孫策の夢を。
もう10年が経つ。
忘れたことなど、一度もない。
なのに、彼の夢を見なかったのは、現実に翻弄されていたせいでもあるのだろう。
それがここへきて、久しぶりに彼の夢をみたのは、孫権がしばらく都にいるようにと言うので、周瑜は久しぶりに都の自宅でゆったりと過ごしていたからかもしれなかった。


「旦那様、今日はいい白魚が入りましたのよ。夕餉を楽しみにしていてくださいましね」
小喬が弾んだ声で言った。
「そうか、それは楽しみだ」
周瑜の部屋にやってきた小喬は、周瑜がなにやら書をしたためているので、何を書いているのかと尋ねた。
「程徳謀殿へ宛てたものだよ。私の替わりに南郡へ行ってくれているのでね。ちょうど入れ違いで、なにひとつ申し送りがができていなかったのだ」
「まあ、そうでしたの」
周瑜は筆を止めて、小喬を見つめた。
「そういえば、義姉上はどうしておられる?」
「お姉さまならお元気ですわよ。循もよくなついていますし」
「そうか。・・・近いうち、また大規模な遠征がある。当分、帰れぬ故、また留守をしてしまうのだが・・義姉上と一緒に住んではどうかな?」
「旦那様・・・ええ、それはもちろん、構いませんけど・・・そんなに遠くへいきますの?」
「うん。大きく西へまわって、それから北上する」
「・・・どのくらいになりますの?」
「そうだな・・・早くて2年、長くて4、5年か・・・」
「まあ、そんなに・・・」
「手伝いの者が通いで来ているとはいえ、やはり女所帯では心配だからね」
「私は旦那様の方が心配ですわ。先だっての戦で怪我を負われたばかりですのに」
「そっちはもう大丈夫だよ」
周瑜は微笑して、再び書をしたため始めた。
小喬はその横顔を不安そうに見つめていた。

小喬は表向きは周瑜の妻ということになっている。
だが、周瑜は女である。
そのことは姉も知らないことである。
姉は、早くに夫を亡くしているので、優しく思いやりのある周瑜を羨ましがったりもしていた。
そんなとき、姉を気の毒に思う反面、少し誇らしげな気分になる。
だが、周瑜は『想う男ができたのなら、いつでもその男の元へ行って良いのだよ』と言う。
そんなことを言われても、彼女にとって周瑜以上の存在はいないと思っている。
小喬にとって、周瑜の性別など、問題ではなかったのである。
ただ、傍にいられればそれでいい。
周瑜の子を育てることによって、彼女の中では自分は周瑜の妻なのである、という錯覚を正当化していたのである。
実質の夫婦ではないにしても、心の結びつきは夫婦以上なのだ、と彼女は確信している。
周瑜は時々、申し訳なさそうな表情で彼女を見ることがある。
彼女には言いたいことがわかっている。
だが、周瑜と一緒になってから、今の自分を不幸だと思ったことは一度もない。
そのことを、彼女は『私は幸せですわ』と言って伝える。
そうすると、周瑜は無言で微笑むのである。






翌日、周瑜は登城し、主な武将たちが集まる中で、先日孫権に上申した策を披露した。
孫権は、作戦人事に関しては追って伝える旨、言い渡した。
武将たちは、その場でそれぞれに名乗りを上げた。
ここしばらくなかった程意気が上がっていた。
そこにいた者で唯一、魯粛だけが無言でいた。
周瑜はそれへ、一瞥しただけで通り過ぎた。

「やはり、殿は周公瑾殿の策を取られましたな」
「魯子敬殿にはさぞ面白くないだろうさ」
「そういえば先日、そのお二方がなにやら口論されたそうな」
「ほほう・・・それはなかなか興味のある話ですな」
「しかし、そうなると、劉玄徳との同盟なんぞと言っていられなくなりますな」
「魯子敬殿は立場がなくなりますな」
「さてさて、今後どうなることやら」
周りの口さがない連中の噂話が時々、耳に入る。
だがそれらをいちいち気にしてはいられない。


回廊へ出たとき、周瑜はふいに眩暈を感じた。
「・・・・っ」
咄嗟に壁に手をついて体を支えたが、明らかにふらついていた。
「周将軍?どうなされました?」
小姓が声を掛ける。
「いや、外の光が目に沁みただけだ。心配ない」

(・・・なんだ、今のは・・・)

壁に着いた手ががくがくと震える。
冷や汗が出る。

「周将軍!」
徐盛がどこからか、駆けつけてきた。
「どうなさいました?」
「文嚮・・・か、すまぬ、手を貸してくれ・・・」
徐盛は人目につかぬように周瑜に肩を貸してすぐ隣の室に入った。
周瑜を床に座らせ、徐盛はその前に跪いて様子を伺う。
周瑜は片手でこめかみから目を覆うようにしながら、息を整えていた。
「大丈夫ですか・・・?」
「ああ・・・すまない」
「水をお持ちしましょう」
「頼む」
そう言って、徐盛は席を外した。

いったい、何だったのだろう。
すーっと、血が下がったような感じがした。
手足がやけに冷たい。

・・まだ、万全ではないのだろうか。
そうしているうちに徐盛が戻ってきた。
水の器を受け取って、一口飲んで、ふぅ、と大きく息をついた。

「ありがとう、助かったよ」
「いえ。まだ、どこかお悪いのでしょうか」
「・・・さてね。自分の体のことながら、よくわからない」
「医者に診てもらった方がよろしいのでは」
周瑜は眉をひそめた。
「そうしたほうがいいのだろうが・・・・少し怖いな。不治の病などと診断されてしまったらどうしたらいい?」
冗談なのだろうが、徐盛は少しも笑わず、じっと無言で周瑜を見つめた。
「・・・冗談だ。そんな顔で見ないでおくれ」
周瑜はそっと徐盛の額を指で小突いた。
冷たい指だった。

「・・・ところでおまえも広間にいたんだね。どこから駆けつけてきたのかと思ったよ」
「末席で将軍の策を拝聴しておりました」
「そうか。あれを聞いてどう思った?」
「真に見事な策かと」
周瑜はフッと笑った。
「おまえは他に言いたいことがあるんじゃないのか?」
「・・・今の将軍の様子を見て、某の言いたいことはお分かりのはず」
「私の体が持つのか、ということか」
「お分かりになっているのであれば、某の申し上げることはございません」
徐盛は、周瑜の不興を買うことをわかっていながら、さらに言った。
「作戦は各武将にお任せして、将軍は後方にてお待ちいただけませぬか」
「それでは戦況に対応できぬ。曹操は油断ならざる相手だ。どんな奇策を打って来るやもしれん」
彼には周瑜がそう言う事はわかっていた。
「・・・だが、そうだな。作戦の前に一度医者にかかってみよう。その医者を同伴させるならば文句はないだろう?」
「・・・は」
医者を同伴させたところで、いうことを聞くとも思えないのだが、徐盛はその場は頷いておいた。
「もう、大丈夫だから、おまえは行きなさい」
「いえ、ですが・・・」
「いいから」
渋々、徐盛はその場を辞した。


一人になっても周瑜は立ち上がることもなく、そのまま床に座っていた。
冷たくなった指先が、少し痺れている。
壁に背をもたせかけながら、天井を見上げる。
昨夜は小喬の料理もちゃんと食べたし、特に体の不調も感じなかった。

-体が熱い気がする。
・・・病の前兆だろうか。
いや、それとも・・・。

その、もうひとつの可能性について、周瑜はなるべく考えないようにしていた。
それは最悪の状況であるように思えた。



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