早いものだ。
自分は今年、父の亡くなった年齢になる。
父の挙兵に名乗りをあげて参加したのが15の歳だった。
あのころは無鉄砲で、何も怖いものなどなかった気がする。
あれから20年。
「伯符さま」
背後から声を掛けられて振り向くと、変らずいつも傍にいてくれる美貌の親友がいる。
ただひとつ、昔と変わっているところがあるが・・・。
「何をお考えになっておられました?」
器用に馬を寄せながら、穏やかに話しかけてくる。
「公瑾か・…よくここがわかったな」
「それはもう。古いつきあいでございますから」
危機は、何度もあった。
しかしその都度、この親友に助けられてきた。
今は呉候となった孫策は苦い記憶を思い起こす。
あのとき、自分は死んでいたかもしれなかった。
それは孫策が26になった年のことだった。
当時、江東を平定していた孫策は江夏をおとした後、呉郡太守として許貢というかの地の豪族を派遣した。
ところがこの許貢は曹操と通じており、密使に持たせた手紙を孫策の手のものに奪われ、
詰問され殺された。
周瑜はこの許貢の身内のことを気にかけていたのだが、孫策はじめ誰もそのことについては考えず、
ほおって置いた。
その後、今だ盗賊の類の横行する江東・呉と新たに江夏を平定するために、孫策は周瑜と
別れるはめになった。
周瑜は巴丘というところに駐屯し、江夏の黄祖が城を捨てて逃げたとはいえ、西と南に睨みを効かせる為防備の構えを万全にする必要があった。
一方孫策は江東にもどり、周瑜が江夏を平定したのち合流し、曹操を背後から叩く、という目論見もあった。
それから半年後だった。孫策をふいに襲った出来事が起こったのは。
周瑜からきつく戒められていたにもかかわらず、孫策は少数の共のみをつれ、狩にでた。
その途中であった。
許貢の配下の者たちが、主君の仇とばかりに孫策に毒矢を射かけてきたのだ。
不幸にして周りにはだれもいなかった。
「伯符さま!」
そのとき、孫策はいるはずのない男の声を聞いた。
自分の前に飛び出してきた姿はまぎれもなく、周瑜だった。
なぜ、ここにいる?
そんな言葉が出る前に、矢は孫策の盾となった周瑜を射抜いていた。
自分の目の前で周瑜の体が崩れ落ちるのを見た。
目に映るものがすべてまぼろしのように感じた。
頭ががんがんして、何も考えられなかった。
それからどうやってその場を切りぬけ、周瑜を担いで屋敷に戻ってきたのかは覚えていない。
矢は周瑜の左腕上部を居抜いていた。
すぐに医師が呼ばれ、治療に当たったが、強い毒だったらしくすでに周瑜の意識は無かった。
矢が抜かれた跡はどす黒く変色し、傷口が腐ってきていた。
医師は、腕を切り落とせば助かるかもしれない、と言った。
腕を切り落とすだと?
孫策はぼんやり遠くで聞いていた。
駆けつけた重臣たちは、とにかく助けろ、と口々に言う。
それすらも遠い空での出来事のように。
誰が・・誰を助けるって?
誰の腕を切るって?
………
周瑜は左腕を失った。
「伯符さまのお命に比べれば腕一本くらい安いものです」
熱にうかされた不自由な身体でそう言っていた。
その後何日も周瑜は床につき、生死の境をさ迷った。
周瑜の枕元で眠らず、食べるものも殆ど採らず、
呆然自失となった孫策を叱咤したのは張公や程普たちであった。
孫策はこの時ほどおのれの迂闊さを呪ったことはなかった。
自分の身が切られるほどの焦燥と衝撃。後悔と叱責の念。
もともと丈夫な性質ではない、この細い体に自分はなんというむごい運命を与えてしまったのだろう。
もう二度と、周瑜の奏でる琴も笛の音も聞くことがかなわないのだ。
二度と…
くっ、と唇を噛む。
もう二度とあんな思いはしたくない。させない。
「たとえ片腕のみならず両足を失ったとしても、この命さえあれば、伯符さまのお役にたてる自信はあります。
どうかお気になさらずに」
周瑜はさらりと言ってのけたものだ。
昨日まで死ぬかもしれなかった体で。
それにしても最大の疑問は、なぜ巴丘にいるはずの周瑜がここにいるのか、ということだった。
孫策は病床にある周瑜に問いただした。
「そうだ、公瑾。聞こうと思っていたんだが…」
「なんでしょう?」
「俺に何も告げず、おまえはなんで戻ってきたんだ?」
「ああ、使いよりはやく私の方が到着してしまったからでしょうね」
「なんだって・・・?」
周瑜は孫策の顔を見ながら一息つく。
「言い忘れたことがありまして」
「言い忘れたこと?なんだ、それは?」
「…先だって伯符さまが討ち取られた許貢の一族にご用心ください、と」
周瑜はあのあとやはり気になって許貢の配下や家族の様子をさぐらせていたのだ。
そしてここ最近になって、許貢の息子と配下のもの数名が呉郡に入ったという知らせを
受けたのだった。
「…………」
孫策は二の句が継げなかった。
どれほど目が開けているのだろう、この男は。
自分は一生かかって、この命の対価を周瑜に払わねばならない。
北の曹操と東の孫策。
同じ西をめざして、この二国が今ぶつかろうとしている。
曹操は汝南までその勢力を伸ばし始めている。
兵力はほぼ互角と言われているが、北の騎馬部隊を中心とする曹操軍に対しては強力な水軍を持つ
孫策軍の方が、荊州を舞台とする戦では有利と言われている。
劉表亡き後真っ先に荊州をおとし、その水軍までも手中に収めた孫策にとってもはや曹操は恐れるに足らぬ相手と言えた。
もう一方の勢力である劉備は益州の一部と蜀の地を平定したという。南蛮の国と同盟を結んだなどと言う噂もあるが本当かどうかは
わからない。
一度劉備から同盟の使者が来たことがあったが、孫策は相手にもせず追い返した。
劉備の蜀は曹操軍に漢陽まで南下され、独力で戦に挑む事が苦しいようであったため、一旦孫策軍と同盟し、共に曹操を
討とうという計画であった。
周瑜はその計画自体が今の呉にとって無意味であることを皆に説き、孫策は自軍のみで充分戦える事をもちろんしっている。
周瑜は隻腕将軍と呼ばれて久しいが、その彼に水軍の全権を与えてある。彼の補佐には呂蒙をあたらせている。
勝てる、と孫策は確信していた。
「これから水軍の訓練が始まります。ご覧になりますか?弟君もよく指揮なさっておいでですよ」
「ああ、権には徳謀もついておることだしな。そうでなくては困るさ」
27歳になる弟の孫権は未だに少し頼りないところがあるが、人望はある。
「おまえ一人になにもかも背負わせるようではあれも大したことはできまい」
周瑜を右都督に任じ、自らも戦場に出向くつもりでいる。
「おまえが訓練した水軍ならまちがいはあるまい。万に一つも負けようはずはない」
孫策のまなざしに、周瑜はうなづく。
「柴桑で吉報をお待ちくださっていてもよろしいのに」
そう周瑜がいうと孫策は首を横に振った。
「この一戦で版図が変るのだ。俺が出なくてどうする」
周瑜は目を細めて隣に並ぶ精悍な顔を見た。
その心中を察してか、孫策はにやり、と笑って見せた。
「大丈夫だ。無理はしない。約束する」
周瑜はぶつぶつと口の中でなにかをつぶやいたがそれは孫策には聞こえなかった。
周瑜はすでに戦う前から勝利の準備を進めているのだ。
そして戦いが始まったときにはすでに勝敗は決しているはずだ。
この版図に孫策の名を記すために。
孫策はいまや小覇王にあらず。その器覇王なり、と。
(了)