鳥居 小八郎(とりい こはちろう) ?〜?  享年  ? 

通称  伊豆守  民部少輔
居城  向真日抜舞城(むこまいぬきまいじょう)


1553年3月5日付けで毛利元就に山伏(やまぶし)の格好して身分を隠し会いに行き援軍を要請、1554年2月柿木へ向かう江良房栄の軍を迎撃したが突破され、責ヶ溢(せめがえき)に付して江良房栄に伏兵戦を仕掛け、江良軍の侵攻を度々阻害した、津和野三本松城合戦では陶晴賢に和睦の使者として赴いた、1557年には抜月→柿木に抜ける「長崎新道」の三里(12キロ)ほど整備した、大弓の名手としても有名で田中玄蕃と弓矢勝負をして二人とも同じ位置に矢が落ち引き分けた、その場所は長箭坪と言う地名になっている。

向真日抜舞城(むこまいぬきまいじょう)この城で小八郎は敵を視察した。  皮肉にもこの道を伝って江良房栄は柿木に向かう事となる。

正頼の小兵
 小八郎が正頼の小姓として影、日向となり活躍した事で毛利元就にも閲覧し重要な局面ではどこからか名前が残っている武将である、なんと言っても「陰徳太平記」に出て元就と閲覧した武将は吉見当主以外ではたぶん小八郎(伊豆守)ぐらいではないだろうか?機敏な動きは伏兵戦や使者として活躍した事が今に伝えられている。

鳥居小八郎の墓、地元では「おとりいさま」と呼ばれている。

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