1/12、オリジナル
ポリパテで原型制作後、レジンに置き換えてあります。
塗装はとりあえずいつもの調子ですませましたが、われながら不満です。
数個複製を取ってあるので折を見て練習しようかな・・・と。
今回は若干リアルな方向に振って(みようとし)ました。
なぜか・・・・・・?
フィギュアを作り始めた当初は、特に深い考えもなく、好きなアニメのキャラなどを作りたいと思っていました。
が、造形練習を重ねるうち、人体の構造が気になりはじめると、リアルな傾向のものを作るのが面白くなってきました。
また、自分が本当に作りたいもの、表現したいものには、リアルな造形のほうがむしろ向いているのでは・・・とも思えてきました。
子どものころにガンプラブームがありました。
当時はロボットばかり作っていました。
が、中学のころ、ファンド製のイクサーロボを最後に模型からいったん離れてしまいました。
その後、出戻ってきた今、今度は人間ばかり作るようになりました。
アニメにしろ何にしろ作品というものの見方が変わったということだと思います。
子どものころはメカやアクションのカッコよさを中心に見ていました。
今は人間たちの織りなすドラマや、登場人物の心情、内面の表現などを中心に見ています。
内面に惚れるからこそ立体化したくなるわけです。
だとしたら、その内面まで造形で表現したい、と大それたことも考えてしまうわけです。
しかしその肝心の「内面」というものには、実は形がなかったりもするわけです。
どうしましょう(^^;)
で、まあ、経緯はいろいろあったわけですが、最近思うのは、「グラビアのようなフィギュアは作りたくない、むしろポートレイト?的なフィギュアが作りたい」ということです。
かわいい女の子がパンツ見せてにっこり、というありがちなフィギュアは作りたくない、とは以前にも書いた記憶がありますが、そういったフィギュアは水着やヌードといった狭い意味でのグラビア的なものだと思います。Tバック女子小学生とかアキバあたりで流行ったとか流行らないとか聞きますが・・・
同じ人物を写した写真でも、それとは趣の違うものが世の中にはあります。
たとえば、
ペシャワール近郊の難民キャンプでカメラを見つめるアフガン難民の少女
酷寒の農村で身を寄せ合って暮らす老夫婦
縁側でボロボロの経典を読むヒンドゥー教徒の老人の手
秋に獲れる小鰯の頭と内臓をむしる漁村の老婦人
鼻水を垂らした跡が白く乾いたネパールの少女の微笑
93歳で没する二年前に撮られたアイヌの族長の顔
そうした写真を、私は、「美しい」と思いました。
水着グラビアの女の子は、かわいかったりきれいだったり色っぽかったり、実用的だったり(笑)するかもしれません。
が、それを、上に挙げたような写真と同じように「美しい」というのは何かが違う気がします。
ポートレイトの目的は、被写体自身です。
その人がどんな人なのか、どんな生活を送っているのか、何を考え、何を思い、何を望んでいるのか――その人の「横顔」を伝えること
すべては無理でもその一端なりと捉え、伝え、もしくは感じさせること。
狭い意味でのグラビアの目的は、観客の欲望を喚起することです。
ぶっちゃけ勃たせることです。
被写体の人格だの内面だのは意味を持ちませんし、それを読み取ることのできるようないかなる情報もその写真の中に含まれてはいません。
たまにモデルのプロフィールなど載せてあることがありますが、半分は営業用の嘘八百(笑)、そもそもそんな文字情報が必要である、ということ自体、その写真がモデルの人物像を捉えてはいないことの証左ではないかと・・・
そこで問題になるのは、モデルの内面などではなく、純粋に外面であり、顔かたちであり、乳尻フトモモといった記号に還元された肉体であり、萌えるコスチュームであり、露出度です。
ポートレイトのなかには人間がいる、すくなくともその気配はする、
グラビアのなかには人間はいない、ただ性の記号がある、
言ってしまえばそんな感じがします。
そうして、人物の「内面」を指向するかぎり、たぶん、私が作りたいフィギュアとは、前者に近いものであるのだと、思います。
そしておそらく、そうしたフィギュアを指向するのであれば、他人が作ったものであれ、自作のものであれ、「物語」に依存しないほうがよいのだと・・・いくつかの理由から、今は思っていたりするわけです。
今回のフィギュアはもちろんまだまだぜんぜんそんなレベルに達してはいません。いつまでたっても達しないかもしれません。
でも、まあ、やるからにはそこを目指さないと自分的には嘘だと思うわけです。
で、しばらくは非版権のリアル系を作っていこう、と、こういうわけだったりするわけであります。
すこぶる誇大妄想的ですけどね(笑) |
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