しばらくぶりにサイト内の整理整頓を始めてみたところ、
ここに記載されていた内容は、まだリラちゃんも若く、たらちゃんが来た頃までの時代の事でもあり、
バセンジー感、健康、レスキューどれ一つ取ってみても、今の自分が見て納得の行くものでは無くなっており、
急に気恥ずかしくなりました。

2005年、2008年と追記してきましたが、もはや修正するのは困難と判断するに至り、
思い出話を掲載していても、それはただの感傷に過ぎませんので削除いたしました。

このページを可愛がってくれた皆様、ありがとうございました。
2012.8.1 トーチャン


「動物の愛護及び管理に関する法律」について思うこと

【「動物の愛護及び管理に関する法律」について思うこと】

犬と暮らして足掛け30年になりますか、初めての犬は昭和40年代、私が幼稚園児だった頃に父親がもらってきた中型の白い雑種でした。東京のアパートでは飼う事が出来なかったので、その犬は「チョロ」と名づけられた後、福島の知人宅に預けられました。まぁ〜動物好きではあったのでしょうけど、父親もずいぶん無茶苦茶な事をしたものです。小学校の入学と同時に一家は福島に引っ越しました。近所だったので私は真っ先にチョロに会いに行きました。農機具が並ぶ納屋の柱につながれて暮らしてました。吠えられたり怖かった記憶が無いのでかなり友好的な再会だったんだと思います。チョロは知人宅のおじさんとおばさんに可愛がられ幸せそうでした。と、同時に、もう自分の犬ではないんだナァ〜、と子供ながらに淋しくもありました。初めて別れの塩っぱさを経験した6歳の春でした。

その後も父親は何頭かの犬を拾ってきては粗末に飼っておりました。みんな‘猫まんまでの栄養失調’や‘予防していれば罹らないはずの病気’で犬の可愛い盛りに死んでいきました。経済的に無力な私は一緒に歩くことしか出来ませんでした。父親は善意で捨て犬を連れてきていたのでしょうけど、決定的にその次の勉強を怠っていました。「犬は繋いで飼いましょう。」と言われれば、「なぜ繋がねばならぬのか?」と、疑問を持ち想像力を働かせる事などとうとう出来なかったのです。

これは日本の飼い犬の典型的なクラッシックスタイルです。善意から派生した虐待の例だと思います。日本でこの‘クラッシックスタイル’が普及したのにはいくつかの要因が考えられます。

  • 食肉文化がごく限られていた日本では犬の力を借りなくとも田畑を耕す事が出来、猟師以外の人達には犬の力が必要なかった事。
  • 上記の理由から犬を管理する必要が無く、町には自然繁殖した野良犬がいた事。
  • 狂犬病の恐怖から武器で野良犬を叩いていた事。(生類憐みの令)
  • 戦時中の管理統制で飼い犬を供出した事。(犬を軽視する日本人が増えた事。)
  • 狂犬病撲滅の為、外飼いの犬達を鎖で繋ぐようになった事。

日本での狂犬病の撲滅は確か1956年だったと記憶してますが、その頃から飼い犬達は‘クラッシックスタイル’になりました。日本の伝統的な犬の飼い方みたいですが、比較的歴史は浅いものなのです。それまでの里山の飼い犬達は皆放し飼いでした。夜は人間の気配を感じることが出来る土間で寝て、お腹が空けばネズミを追い、蛙を食べて栄養を満たす事が出来ました。クラッシックスタイルによって日本はアジアでは珍しい狂犬病撲滅国となりました。死の病を一つ遠ざけた当時の獣医師さん達の努力には敬意を表したいと思います。それと同時に、クラッシックスタイルが「犬を軽視する人間」と「心の淋しい犬」の組み合わせを作り出してしまったようにも思います。

一方、犬達の能力に気付いていた人達は、西洋の知識を取り入れては、和の心を持って解釈し、良いパートナーであり続けようと努力を続けてきました。犬を理解する良い飼い主さんもたくさん現れてきました。日本の現状は世界トップレベルの飼い主さんと、勉強中の飼い主さんと、クラッシックスタイルの飼い主さん、大きく3つに分かれるかと思います。動物愛護団体にかかわる人達の認識も、里親さんが現れれば何はともあれトライしてみる人、人間不信に陥り完璧な里親さんで無ければ引き渡せず、背負い込んだ結果‘善意の虐待’に加担してしまう人、など様々です。

問題は「犬との暮らし」を浅い認識で見ているところから始まります。子犬が可愛いのは当たり前です。自分が淋しくて癒されたくて犬を飼う(買う)のであればその犬は不幸な犬になります。犬達は一途に飼い主を見ています。お留守番をしている犬達はどうしたら飼い主が喜ぶのかを毎日考えています。飼い主との楽しい時間は犬達にとっても幸せな時間なのです。その時間は永遠に続くもの、と、信じて飼い主の帰りを待っています。家族に忘れられた飼い犬は楽しかった子犬の頃を思い出しています。「ずいぶん待たされるナァ〜。でも、いつかまたあの楽しかった時間が戻って来るに違いない。」そう信じてペッタンコになって飼い主を見つめています。

昭和30年代、クラッシックスタイルによって狂犬病は生活の傍から遠ざかりました。半世紀経った今でも地方では「犬は繋いで飼いましょう。公共のルールを守りましょう。」と、アナウンスしています。しかし、ブリーディングを待たずとも子犬が市場にあふれている今、「繋いでエサを食わせておきゃぁ〜いい。」と、クラッシックスタイルの認識が安易な飼育放棄の土壌になっているようにも思います。日本の家庭ではペットのいる光景も珍しいものではなくなりました。行政の指導も、クラッシックスタイルは過去のものとして恥ずかしく思えたり懐かしみ、次のステップに向かう時なのではないでしょうか。共に生きる、という事、そして絆で結ばれる、という事、公共のルールを守る事、その為にはまず犬との付き合い方を考え直すところから出発しなければなりません。愛犬と家族が戯れる景色に憧れながら、しかし、どう犬と向き合ったらいいのかが分からない、本質はそこにあるはずです。ペット税導入論議などもあるようですが、はたして過剰な繁殖や飼育放棄は減るのでしょうか?逆に「金さえ払えば何をしても良い。」という風潮を生み出しはしないでしょうか?犬のいない暮らしが想像出来ない私にはずいぶん表面的な議論にも思えます。

「動物の愛護及び管理に関する法律」とは人間と動物、生き物と生き物の絆、日本人の死生観を理念に検討されるべき性質のものであって欲しいものです。↑topへ

2009.11.11 トーチャン


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