鳥羽伏見の戦い
慶応四(1868)年一月三日〜六日

〜近代日本の幕開けとなった新政府軍と旧幕府軍四日間の死闘!〜

鳥羽伏見の戦いに至るまで

 鳥羽伏見の戦いの要因は、鳥羽伏見の戦いが行われる前年の慶応三年十月十四日に徳川幕府最後の将軍第十五代徳川慶喜が大政奉還を行い、政権を朝廷に返上したことに遡ります。慶応二年十二月に将軍職を継いだ慶喜はそれまでの幕政改革の失敗、諸外国と交易を開いた事による国内経済の混乱、そして幕長戦争の敗北により権威を失った幕府を建て直し、絶対主義権力化しようと多くの幕政改革を矢継ぎ早に行ないます。しかし時代の流れは慶喜の想像よりも早く、倒幕勢力である薩摩藩と長州藩は慶喜を逆賊で追討する為の大義名分である倒幕の密勅を得る為の朝廷工作を進めていました。この倒幕勢力の動きを知った慶喜は、幕府を絶対主義権力化するのを諦め、土佐藩の建白を受け入れ政権を朝廷に返上する事により薩長両藩の大義名分を封じる事に成功します。こうして政権を返上した慶喜ですが、これはあくまで絶対主義権力化を諦めたに過ぎず、聡明な慶喜は当時主流派になりつつあった公議政体派政権(諸侯による合議政権)の首座に就く事を新たな目標として、諸々の政治工作を行い始めます。これに対して倒幕勢力も慶喜の大政奉還により出鼻こそ挫かれたものの、その後攻勢を強めて遂に十二月九日に王政復古のクーデターを断行し、明確に慶喜と旧幕府に対する敵対的な立場を表明します。
 しかし王政復古クーデターの直後に行なわれた小御所会議でこそ倒幕派が優勢でしたが、それから徐々に公議政体派の巻き返しが始まります。ここで少し説明させて頂きますが、王政復古クーデターは薩摩藩・土佐藩・芸州藩・尾張藩・越前藩の五藩の協力により断行しましたが、この内明確に慶喜と旧幕府を敵視したのは薩摩藩のみであり(後に長州藩も参加)、残りの土佐・芸州・尾張・越前は慶喜と旧幕府に同情的であり、特に前土佐藩主山内容堂、前越前藩主松平春嶽、前尾張藩主徳川慶勝の公議政体派諸侯は薩長の倒幕派藩士達の台頭を快く思わず、自分達と同じ封建諸侯である慶喜の復権をむしろ望んでいました。この様に王政復古クーデター直後に成立した新政府は、成立当初は倒幕派と公議政体派を内包する不安定な権力だったのです。
 この新政府の実情を知る慶喜は王政復古クーデターを知り激昂する会津藩や桑名藩を宥めすかし、京から大阪に退去して新政府内の公議政体派と連絡を取り合い巻き返しを計ります。王政復古クーデター直後こそ主流派だった倒幕派も、慶喜の協力を得て平和的な政権交代を主張する公議政体派の巻き返しにより徐々に新政府内での発言力を失うようになります。この様な公議政体派の巻き返しにより慶喜が圧倒的に優勢な情況となったのですが、他でもない旧幕府軍の暴発がこの慶喜有利の情況をぶち壊します、このきっかけは大阪に届けられた江戸からの開戦の知らせでした。

 話は遡りますが、前年の慶応三年の終盤より関東では在江戸の薩摩藩とその指揮下の浪士達により、盛んに旧幕府を挑発する破壊工作が行なわれていました。これは公議政体派と協力した慶喜の巻き返しを見た薩摩藩の西郷隆盛が、旧幕府を挑発して激昂させる事により軍事衝突に持ち込ませて、これを撃破することにより慶喜と協力した公議政体派優勢の情況を挽回しようとの謀略でした。そして十二月二十五日遂に江戸城在住の小栗忠順等の開戦派の旧幕臣達が庄内藩兵等に摩藩藩江戸藩邸への攻撃を指令し、旧幕府軍は薩摩藩邸と支藩の佐土原藩邸を攻撃します。これにより江戸では旧幕府と薩摩藩が交戦状態に入り、大目付滝川具挙が江戸で開戦した事を大阪に報告する為に派遣されます。そして滝川により二十八日に江戸は既に開戦したとの情報が大阪在住の旧幕府軍に知らされると、それまでの新政府内の薩長両藩に対する憎しみをたぎらせていた会津藩と桑名藩を始めとする旧幕府軍の将兵は「江戸の次は京で開戦すべし」「薩摩討つべし!」と激昂し、遂に一万五千余の旧幕府軍が京を目指して進軍を開始したのです。

 ところでこの旧幕府軍の進軍に対して慶喜の指示があったのかどうかについては諸説があり、慶喜自身回想記の「昔夢会筆記」にて臣下が暴発した結果で慶喜の本意ではなかったと述べており、これを支持する原口清氏が居れば、むしろ慶喜自身が強硬派であり京への進軍は慶喜主導で行なわれたと主張する石井孝氏も居るなど当時の慶喜の態度には諸説がありますが、弊サイトとしては慶喜は京への進軍に対し消極的賛意を示したとの認識をしています。これはこのまま情勢が進めば公議政体派と組んだ慶喜の政治的勝利は間違いないので、慶喜としては軍事力を行使しなくても良かったのですが、詳しくは後述しますが兵力で薩長連合軍を凌駕する旧幕府軍が負ける訳がないのですから、軍事力を用いるのも構わないと判断して旧幕府軍の進発に消極的賛意を示したのではないかと判断しています。或いは政治的勝利ではあくまで公議政体派の首座しか手に入りませんが、軍事力で権力を奪取する事によりかつて目指した絶対主義権力を手に入れようとしたのかもしれません。


鳥羽伏見の戦い
地図

一月三日の戦い

旧幕府軍の進軍開始
 かくして京を目指して進軍を開始した旧幕府軍は総督:大河内正質・副総督:塚原昌義の指揮の元で(実際には陸軍奉行竹中重固が指揮を取っていた模様ですが、この辺の指揮統率の曖昧さが旧幕府軍の失策に繋がったと判断します)、鳥羽(街道)方面軍と伏見(街道)方面軍に分かれて行軍を開始します(厳密にはもっと細かく分かれていたのですが、基本的には鳥羽街道方面と伏見街道方面に分かれていたので、以後鳥羽方面軍と伏見方面軍と呼称します)。
 まず鳥羽方面軍(滝川具知指揮?):幕府歩兵隊第一連隊(徳川出羽守指揮、1000人程?)・同第五連隊(秋山下総指揮、800人程?)・同伝習隊(小笠原石見守指揮、人数不明)・見廻組(佐々木只三郎指揮、400名程)・桑名藩兵(服部半蔵指揮、4個中隊と砲兵隊)・大垣藩兵(小原忠迪指揮、500名程)、浜田藩兵(指揮官不明、30人程)が行軍します。
 一方伏見方面軍(陸軍奉行竹中重固指揮)は幕府歩兵隊第四連隊(横田伊豆守指揮、1000人程?)・同第七連隊(大沢顕一郎指揮、800人程?)・同第十一連隊(佐久間信久指揮、900人程?)・第十二連隊(窪田鎮章指揮、人数不明)・伝習隊(指揮官、人数不明)・遊撃隊(今堀越前守指揮、50名程)・会津藩兵(田中土佐隊・堀半右衛門隊・生駒五兵衛隊・上田八郎右衛門隊・林権助砲兵隊・白井五朗太夫砲兵隊・佐川官兵衛別選隊)・新選組(土方歳三指揮、150名ほど)・高松藩兵(三宅勘解由・筧謙介指揮、8個小隊300名程)・鳥羽藩兵(稲垣九朗兵衛指揮、2個小隊98名)の二手に分かれそれぞれ北上を開始します。
 以上の布陣で進軍を開始した旧幕府軍ですが、京に向かうには鳥羽街道と伏見街道の他にも、主な街道だけでも竹田街道と西国街道がありましたが、旧幕府軍はこの両街道には軍を向かわせませんでした。これは後述しますが、激昂し開戦を決断した旧幕府軍でしたが、自分達の大軍が押し寄せれば薩長連合軍は戦わずに逃げ出すだろうと言う思い込みが旧幕府軍にはあったらしく、実際に薩長連合軍と戦闘になったらどう戦うのかと言う作戦案が無かった為、旧幕府軍は鳥羽街道と伏見街道のみしか進軍路を定めなかったので、結果鳥羽街道と伏見街道に殺到した旧幕府軍は数の有利を生かす事が出来ませんでした。

鳥羽方面の戦い
 この旧幕府軍の進軍に対し薩長連合軍も二手に分かれ、鳥羽方面には東寺を出発した薩摩藩参謀伊地知正治が率いる同藩兵6個中隊相当(城下士小銃五番隊・同六番隊・外城一番隊・同ニ番隊・同三番隊・私領ニ番隊)と一番砲兵隊半隊が鳥羽街道を南下し、鴨川に掛かる小枝橋を渡った辺りに布陣します。
 この小枝橋付近に布陣した薩摩藩兵に対し、滝川は通過させるよう交渉しますが、薩摩藩側はのらりくらりと言を交わし時間を稼ぎます。この間に伊地知は城下士小銃六番隊を鳥羽街道と平行している鴨川左岸を南下させ藪の中に待機させ、外城一番隊を鳥羽街道東側の藪の中に待機させます。これは鳥羽街道上に展開する残りの4個中隊相当と十字砲火を行なえる為の処置で、滝川が指揮下の軍勢を鳥羽街道上を行軍体制のまま放置していたのと比べると、伊地知の手腕は際立っていたと言えましょう。
 こうして伊地知隊が夕方になり布陣を終えると、滝川の方も痺れを切らし鳥羽方面軍に攻撃を命じます。しかし鳥羽街道上に行軍体制のまま放置されていた旧幕府軍が戦闘体制に展開する前に、薩摩藩城下士小銃五番隊の大砲が先に砲撃を開始し、その初弾が幕府陸軍砲兵の大砲に命中し爆発した事を合図として鳥羽伏見の戦いが始まったのです。

 上記の通り激昂し出撃したと言っても旧幕府軍は実際に戦闘するとは思ってなく、自分達が出ていけば薩長連合軍が逃げ出すとは思っていたらしく、この鳥羽街道上でも戦闘体制は取らず行軍状態のまま待機していたので、薩摩藩の砲撃を受けても直ぐに展開する事が出来ずに逆に混乱に陥ります。しかしそのような旧幕府軍の中でも、見廻組が勇敢に反撃を開始しますが、幾ら勇敢でも刀槍部隊でかつ密集隊形で突撃しようとする見廻組を鳥羽街道上に展開する薩摩藩4個中隊相当は猛射撃で応戦し、見廻組は多くの死傷者を出し敗走します。
 その後体制を整えた幕府歩兵第一連隊が今度は攻撃を開始しますが、散開せずに行軍隊形のまま前進したため、鳥羽街道上に展開する薩摩藩兵4個中隊相当と、上記の通り鴨川左岸に待機する城下士小銃隊六番隊と、鳥羽街道東側の藪の中に待機する外城一番隊の十字砲火を受け大打撃を受けます。正面からの射撃なら幕府歩兵隊も反撃出来たでしょうが、正面からだけではなく、左右からも射撃を受ける二重の十字砲火を受けては流石の幕府歩兵隊もなすすべきもなく、幕府歩兵第一連隊は過半数が戦死すると言う壊滅状態に陥ります。
 この第一連隊を壊滅させた後、それまで防戦だった薩摩藩兵も攻勢に移り前進を開始します。これに対し旧幕府軍も桑名藩兵の砲撃と伝習隊のシャスポー銃による射撃で迎え撃ち、しばらくは一進一退の攻防戦が行われますが、長州藩第三中隊(整武隊)の別働隊に側面を突かれた事により旧幕府軍もついに力尽き後方陣地に撤退します。

    

    

      

上段左:長州藩兵の本営となった東福寺退耕庵
上段中:退耕庵近くの丘に立つ鳥羽伏見の戦いでの長州藩兵戦死者の墓地
上段右:薩摩藩兵の鳥羽方面の本営になった城南宮
中段左:鳥羽伏見の戦いの開戦の合図となった薩摩藩兵の砲撃が行なわれた秋の山
中段中:旧幕府軍と薩摩藩兵が激突した小枝橋付近、右奥に見える民家は当時新政府軍の野戦病院となりました。
中段右:上記の小枝橋付近に建てられた鳥羽伏見の戦い開戦の石碑
下段左:現在の鳥羽街道赤池方面から小枝橋方面を見て、右奥の森に上記の秋の山がありました。
下段右:薩摩藩城下士小銃六番隊が射撃を行なったと思われる鴨川対岸河原

伏見方面の戦い
 一方の伏見方面では薩長連合軍は御香寺を中心に布陣して、薩摩藩兵は吉井友実指揮の元に5個中隊相当(城下士小銃隊一番隊・同ニ番隊・同三番隊・同四番隊・外城五番隊)と、長州藩の第六中隊(第二奇兵隊)と第二中隊(遊撃隊)が布陣します。
 この伏見でも旧幕府軍と薩長連合軍は睨み合いを続けていましたが、鳥羽方面の銃声が聞こえ始めると両軍とも攻撃を開始します。この伏見の戦いは市街戦で、まずは旧幕府軍の遊撃隊や新選組、更に会津藩兵の別選隊等の刀槍部隊が白兵突撃を試みますが、薩長連合軍の猛射撃に撃退されたので、その後道に簡易陣地を設けたり、畳の陰から攻撃をしましたが、高所を抑えてる薩長連合軍は頭上から射撃するため、徐々に旧幕府軍は押され始めます。更に薩摩藩砲兵隊の砲撃により旧幕府軍の本営とされた伏見奉行所などが砲撃され炎上すると、闇夜の中薩長連合軍から旧幕府軍はよく見えますが、旧幕府軍から薩長連合軍は見えないと言う状況に陥り、ついにこの伏見方面の旧幕府軍も敗走します。
 ただ旧幕府軍もただ一方的に敗れた訳ではなく、会津藩兵が長州藩第二中隊参謀の後藤正則を討ち取るなど一定の戦果も挙げています。

    

     

上段左:旧幕府軍の拠点だった伏見奉行所跡、薩摩藩砲兵隊はここ目がけて頭上の御香寺から砲撃を行いました。
上段中:伏見方面の薩摩藩兵が布陣した御香寺。
上段右:御香寺に立てられている鳥羽伏見の戦いの説明文です。
下段左:薩長連合軍が放った銃弾の弾痕が今も残る老舗の料理屋「魚三楼」
下段中:伏見方面の戦いで会津藩が本営とした東本願寺伏見別院
下段右:御香寺の本殿


一月四日の戦い

鳥羽方面の戦い
 昨日の戦いで僅か五千の薩長連合軍に敗れた一万五千の旧幕府軍は、再起を計る為再び京都に目がけ行軍を開始、再び鳥羽・伏見両方面で旧幕府軍と薩長連合軍は激突します。
 昨日敗れた旧幕府軍は伏見方面の幕府歩兵第十一連隊・同十二連隊を鳥羽街道に回し、この日の鳥羽方面の戦いではこの第十一連隊と第十二連隊が先鋒となり薩長連合軍に攻めかかります。
 一方の伏見方面の薩長連合軍も薩摩藩3個中隊相当(城下士小銃一番隊・同三番隊・三番遊撃隊)と長州藩第六中隊(第二奇兵隊)を鳥羽方面に援軍に向わせ、それぞれ前日より増強された旧幕府軍と薩長連合軍が鳥羽方面で激突します。
 この日の戦いでは幕府歩兵第十一連隊隊長の佐久間信久と第十二連隊隊長の窪田鎮章が勇戦し、一時は薩長連合軍を圧倒しますが、乱戦の中この二人の連隊長が戦死すると、ついに旧幕府軍の攻撃も力尽き昨日同様後方の富ノ森陣地に撤退します。
 これを見た薩長連合軍は追撃を開始しますが、富ノ森陣地の手前に達した時、大垣藩兵と淀から援軍に来た会津藩兵の伏兵に側面を突かれ、更に富ノ森陣地に篭る伝習隊の射撃を受けた事によりついにこの攻撃は頓挫し撤退します。

    

  

上段左:赤池方面より下鳥羽方面への現在の鳥羽街道
上段右:法伝寺に建てられた旧幕府軍戦死者墓地、下鳥羽陣地攻防戦で戦死した兵士達の墓と推定します。
上段右:下鳥羽から富ノ森への現在の鳥羽街道
下段左:上段右の画像の鳥羽街道脇に建つ鳥羽伏見の戦いの石碑
下段右:富ノ森陣地攻防戦の際、大垣藩兵と会津藩兵が奇襲を仕掛けた湿地帯跡を思われる水田。この富ノ森陣地が設けられたと思われる周辺は、水田が広がっていますが、これらは当時全て湿地帯だったと思われます。

伏見方面の戦い
 一方の伏見戦線では薩長連合軍・旧幕府軍共鳥羽方面に援軍を送りましたが、この日土佐藩兵4個小隊(山地忠七隊・吉松速之助隊・山田喜久馬隊・ニ川元介隊)及び北村長兵衛砲兵隊が前藩主容堂の指示に逆らい独断で薩長連合軍に加わり、この伏見方面では薩長土連合軍として攻撃を開始します。
 この日の伏見方面での戦いでは、前日の戦いで拠点である伏見奉行所を失った旧幕府軍は一方的に撃破され、伏見を捨て淀方面に撤退します。

 またこの日の午後になり、薩摩藩の大久保利通や長州藩の広沢真臣等の政治工作により薩長連合軍に錦の御旗が翻り、これにより薩長連合軍は公式に新政府軍と認められ「官軍」となり、逆に旧幕府軍は「賊軍」となったのです。*これ以降薩長連合軍を新政府軍と呼称します。
 この錦の御旗を見て新政府軍の将兵の士気は大いに上がり、逆に旧幕府軍の将兵の士気は大幅に下がった事により、戦況は急激に新政府軍有利へと傾いていったのです。

最初に錦の御旗が翻ったと言われている安楽寿院(諸説有り)


一月五日の戦い

 話は遡りますが、一月三日の鳥羽伏見の開戦を受けて新政府は在京諸藩に新政府へ参加を命じる書状を送りましたが、この日薩長土藩兵以外では初めて鳥取藩兵が新政府軍の一員として前線に現れます。
 この日の戦いでの新政府軍は、まず鳥羽方面軍は桂川に沿って南下し、富ノ森・納所等の旧幕府軍陣地を奪取して、最終的に淀城攻撃を目指し進軍を開始します。また伏見方面軍は宇治川に沿って進軍し、周辺の旧幕府軍を駆逐しつつ淀城攻撃に向います。このようにこの日の新政府軍の作戦は、最終的に淀城で鳥羽方面軍と伏見方面軍が合流し、両軍合同の元淀城攻撃を行うつもりでした。

鳥羽方面の戦い
 この作戦指導の元、鳥羽方面軍は薩摩藩4個中隊相当(城下士小銃三番隊・同五番隊・同六番隊・外城ニ番隊)及び一番砲兵隊・ニ番砲兵隊、そして長州藩第三中隊(整武隊)等を主力として桂川に沿い南下、先日の戦いの終盤で旧幕府軍に奪回された富ノ森陣地に攻めかかります。しかしこの陣地を守る幕府歩兵隊(隊名不明)と会津藩兵と桑名藩兵も勇戦したため、しばらくは一進一退の攻防が行われ、激戦の中で薩摩藩城下士小銃六番隊隊長の市来勘兵衛が戦死するなどの激闘が繰り広げられます。
 このようにしばらくは一進一退の攻防戦が行われましたが、ついに旧幕府軍も力尽き富ノ森陣地を放棄して、後方の納所陣地に後退します。やがて富ノ森陣地を奪取した新政府軍が今度は納所陣地に攻めかかりますが、富ノ森陣地ではあれほどの勇戦を見せた旧幕府軍も後退した事により緊張の糸が切れたのか、この納所陣地では抵抗らしい抵抗もせずに納所陣地を捨て淀小橋を渡り淀城目指し撤退します。

    

左:富ノ森陣地攻防戦が行なわれた辺りに建てられたと思われる愛宕茶屋の旧幕府軍戦死者墓地
中:富ノ森方面より納所方面への現在の鳥羽街道
右:納所陣地攻防戦が行なわれたと思われる付近に在る妙教寺に建つ旧幕府軍戦死者の墓地、納所陣地攻防戦で戦死した兵士達の墓地と推測されます。当日の戦いではこの妙教寺の境内にまで新政府軍の銃弾が飛び込んできたそうです。

伏見方面の戦い
 一方の伏見方面軍は薩摩藩6個中隊相当(城下士小銃ニ番隊・同四番隊・同十二番隊・遊撃隊ニ番隊・同三番隊、私領ニ番隊)と、長州藩兵の第一中隊(奇兵隊)・第五中隊(振武隊)、そして鳥取藩兵半大隊相当(総括隊長唯武次郎、砲兵を含む)等を主力として宇治川に沿って進軍を開始淀城を目指します。
 これに対し旧幕府軍は淀城北東の湿地帯の千両松付近にて、会津藩兵・伝習隊・新選組・遊撃隊等が布陣して迎撃を計ります。この千両松付近は湿地帯の為旧幕府軍は統一的な行動はせずに、各自バラバラの攻撃を行ったのですが、湿地帯のために思うように行動の取れない新政府軍はこの攻撃に難儀して、薩摩藩城下士小銃隊十二番隊隊長の伊集院与一、長州藩第一中隊半隊司令の藤村英二郎、同第五中隊を率いる石川厚狭助が戦死するなどの大打撃を受けます。
 しかし長州藩第一中隊軍監の福田侠平の指揮の元、第一中隊が突撃しついに橋頭堡を確保した事により新政府軍が全面攻勢に移り、ついに旧幕府軍を撃破します。この敗戦で会津藩兵の虎の子の別選隊や新選組などは壊滅的な打撃を受けました。
 余談ですが、砲兵を持たない長州藩兵は鳥取藩兵の砲兵隊(隊長近藤類蔵)を本隊から分離させ、第一中隊の指揮下に入れこの日を戦いましたが、期待されていた鳥取藩の大砲は緒戦で二門とも破損して使用不能となった為、期待された活躍は出来ませんでした。この為にこの日の戦いの終了後鳥取藩兵は桑名藩兵が遺棄した砲を鹵獲して、その砲を自軍の物にします。
 この後旧幕府軍は淀小橋を渡り、新政府軍が追撃出来ないように淀小橋を焼き落として淀城に撤退します。

  

左:新政府軍の伏見方面軍と、旧幕府軍の会津藩兵・伝習隊・新選組・遊撃隊等が激突した千両松古戦場付近に建てられた旧幕府軍戦死者の慰霊碑「八版楳木」
右:旧幕府軍が淀城に撤退した後焼き落とした淀小橋跡の石碑。現在は埋め立てられ当時の面影は偲ばれません。

淀藩新政府軍に恭順する
 かくして新政府軍の鳥羽方面軍・伏見方面軍共に前面の敵を撃破して前進し、やがて淀城の近くで両軍合流し淀城に向かいます。一方の旧幕府軍も富ノ森・納所・千両松原の各戦線で敗れた陣容を立て直す為に、旧幕府軍の本営が設けられていた淀城に向かいます。淀藩藩主稲葉正邦は現役の老中として江戸で政務を取っていたので不在でしたが、現役老中を出す淀藩は当然の如く旧幕府軍に参加すると判断され、旧幕府軍の本営は淀城城下に設けられていました。しかし肝心の淀藩の内情は多くの諸藩同様尊王と佐幕の狭間で揺れ動いており、各地の戦いで旧幕府軍が敗れ、新政府軍に錦の御旗が挙がったのを見て、遂に淀藩は旧幕府軍を裏切って新政府軍に恭順する事を決意します。こうして淀城に篭って新政府軍に反撃しようと、続々と淀に旧幕府軍は殺到しますが、そんな旧幕府軍に対し淀城は城門を閉ざし旧幕府軍の入城を拒絶するのです。この譜代の名門の背信行為に旧幕府軍の将兵は激昂し、無理にでも入城を試みましたが、背後から新政府軍が迫って来るのを知ると遂に淀城を諦め、南方の男山と橋本陣地を目指して撤退します。こうして木津川に掛かる淀大橋を渡った旧幕府軍は、新政府軍の追撃を阻む為に淀大橋を焼き落として、旧幕府軍にとって最終防衛ラインである男山〜橋本間の戦線に布陣するのです。
 余談ですが、この日の戦いで折角鳥取藩の砲兵隊を指揮下に入れ、開戦以来砲兵不足から解消されたと思われた長州藩兵も、上記の通りこの日の戦いで鳥取藩の大砲が破損した事により再び大砲不足に陥ります。この為長州藩兵は淀藩恭順後に淀城内の大砲八門を接収し、翌日六日の戦いではこの大砲を用いて戦う事になるのです。

  

 城下に旧幕府軍の本営が置かれた淀城跡。


一月六日の戦い

 淀城を失った旧幕府軍は、これまでの「京に向い進軍する」と言う方針から「京から進軍してくる新政府軍を迎え撃つ」と方針を転換し、大阪平野への新政府軍の進出を阻止するために、京都平野の最南端に位置する男山と旧幕府軍の本営が置かれた橋本陣地に布陣します。
 これに対し新政府軍は今まで戦闘に参加していた薩摩藩・長州藩・土佐藩・鳥取藩の四藩兵に加え、この日から芸州藩兵も戦列に加わった大連合軍となって攻撃を開始します。ただしこの日は先日戦列に加わった鳥取藩兵は戦闘には不参加し、先日恭順した淀藩も上記の通り長州藩兵に大砲は接収されたものの、淀藩兵自身は戦闘参加は間逃れます。
 こうして薩摩藩兵による右翼軍(橋本と西側から男山を攻撃する)・長州藩兵による左翼軍(正面より男山を攻撃する)・そして薩長芸の合同による別働隊(迂回して男山を東側から攻撃する)の3つに分かれ、それぞれが木津川を渡河し男山〜橋本間の戦線に対し攻撃を開始します。
 この時の新政府軍の編成は
右翼軍:薩摩藩兵12個中隊相当:城下士小銃三番隊・同七番隊・同八番隊・同九番隊・同十二番隊・外城ニ番隊・同三番隊・同四番隊・遊撃隊一番隊・同ニ番隊・兵具隊一番隊・私領ニ番隊及び大砲隊一番隊・同ニ番隊
左翼軍:長州藩兵3個中隊と2個小隊:第一中隊(奇兵隊)・第三中隊(整武隊)・第五中隊(振武隊)・第八小隊(膺懲隊)・岩国藩日新隊1個小隊
別働隊:薩摩藩城下士小銃一番隊・同外城一番隊・長州藩第六中隊(第二奇兵隊)・芸州藩兵4個小隊(総括隊長南部健介)
 以上の編成で攻撃を開始します。

 この男山〜橋本のラインを突破されれば、大阪まで新政府軍の阻む地形はなく、新政府軍の大阪平野への侵入を許してしまう事になるので、旧幕府軍もここが正念場と必死の防戦を行い、この為に新政府軍もこの戦線の突破が中々出来ませんでした。しかし戦上手の世良修蔵が率いる薩長芸による別働隊が木津川を渡河後大きく迂回し男山の東側陣地を急襲し、激戦の末にこの陣地を突破する事に成功します。この新政府軍別働隊の突破により側面を脅かされた事により、それまで善戦を続けた旧幕府軍に動揺が走ります。そして旧幕府軍に動揺が走り始めた正にその時、それまで静観していた淀川対岸の山崎に布陣する津藩兵からの砲撃を旧幕府軍は受ける事になります。
 元々津藩兵は鳥羽伏見の戦いとは関係なく慶応元年から山崎守衛の任務についており、鳥羽伏見の戦いが始まっても新政府軍と旧幕府軍のどちらにも味方せずに静観をしていたのですが、昨日の五日に新政府軍に味方せよとの勅命が降った事により、この日新政府側として旧幕府軍に攻撃を開始したのです。この津藩兵の砲撃を受けて当初は旧幕府軍に動揺が走りましたが、それでも橋本に布陣する旧幕府軍砲兵隊は動揺から立ち直り、対岸の津藩兵に反撃の砲撃を開始します。しかしそれまで橋本陣地からの砲撃が新政府軍主力部隊の進軍を阻む要因になっていましたが、この橋本陣地の砲兵が淀川対岸の津藩兵にたいする砲撃に回されたので、新政府軍主力部隊に対する拘束は弱まり、これにより男山〜橋本の戦線を守る旧幕府軍は東は新政府軍別働隊から攻撃を受け、西は津藩兵から砲撃を受け、そして正面である北からは新政府軍主力部隊の攻撃を受ける事になり、言わば広義の三面包囲を受ける事によって遂に旧幕府軍も力尽き、戦線を放棄して大阪に敗走するのです。

 こうして敗走した旧幕府軍ですが、それでもまだ大阪城に篭って戦おうとの意思を持っていました。しかし満身創痍の旧幕府軍が大阪城に到着した時、既に全軍の総大将である徳川慶喜の姿は無く、これにより最後の希望を失った旧幕府軍の将兵達は大阪城を捨て、正に落人の如くバラバラに大阪を去って行ったのです・・・・。 

      

    

上段左:淀方面から見た男山東側、この日の戦いでは世良修蔵が率いる薩長芸の別働隊がこの方面に攻撃を仕掛けました。
上段中:男山東側から木津川方面を見下ろして
上段右:旧幕府軍橋本陣地跡の石碑
下段左:旧幕府軍の橋本本営となった久修園院
下段中:津藩砲兵隊が布陣した高浜砲台跡の石碑
下段右:高浜砲台が在った付近より対岸の旧幕府軍橋本陣地方面を見て、左の小山が男山で、右端の林付近に橋本砲台が在ったと言われています。


鳥羽伏見の戦いの考察

 この鳥羽伏見の戦いで数的に圧倒的優勢を誇る旧幕府軍でしたが、数的に劣る新政府軍に敗れると言う大失態を演じました。これは数で上回ると言っても、旧幕府軍は京に向かう主街道の鳥羽街道・伏見街道・竹田街道・西国街道の四つの街道の内、新政府軍が布陣する鳥羽街道と伏見街道へのみ進軍した為、この両街道のみでは大軍を展開する事が出来ず、折角の数の優位を生かす事が出来ませんでした。
 実際西国街道と竹田街道に対する薩長連合軍の守りは殆ど無かったので、もし旧幕府軍が西国街道に千程の兵を回せば、数の優位を生かした包囲も可能だったのに、感情の赴くままに作戦立案を疎かに進軍した事こそ旧幕府軍最大の失態だったと判断します。
 これについては後年徳川慶喜が「昔夢会筆記」にて「鳥羽伏見の戦いには軍令はなかった」と言っている言からも、旧幕府軍の戦争準備はおおざっぱな物だったのは間違いないと思います。これは「敗北した際は明治天皇を伴って山陰に撤退して再起を計る」との計画を立てていた薩長連合軍と比べると際立ち、鳥羽伏見の戦いは戦争における戦争準備の重要さを証明していると思われます。

 また実際の戦闘の面でも旧幕府軍の失策が目立ちます、一般的には新政府軍の方が火器が優勢だったため勝利したと言われていますが、この時点では火器的には旧幕府軍の主力たる幕府歩兵隊(旧幕府軍の半数近くを占め、幕府歩兵隊のみで薩長連合軍を数で上回っていました)は薩長連合軍と互角でしたし(両軍ともミニェー銃を装備)、幕府歩兵伝習隊に至っては薩長連合を凌駕していました(伝習隊はシャスポー銃を装備)。また個々の兵士達もこれらの小銃の扱いに長け、不完全ながらも散兵戦術が可能な程の質の高い歩兵でした。しかし確かに個々の兵士と装備する小銃の質は高いですが、旧幕府軍の上級指揮官に近代戦を理解してる人物が不在で、また統制もしっかり取られてなかったので、折角の火力を活かせませんでした。また部隊を率いる士官達も教育不足(長くて半年の教育しか受けていなかった)の為に、折角の幕府歩兵隊の能力を生かせませんでした。

一方の新政府軍の指揮官達は近代戦をよく理解し、戦国時代さながらの密集戦法を取ろうとする旧幕府軍を、火力制圧と機動攻撃で翻弄し、ついにこれを撃破したのです。
 結局の所旧幕府軍は戦力では新政府軍を凌駕し、兵の質でも決して新政府軍にひけを取りませんでしたが、上級司令部の戦略と、前線指揮官の戦術能力の面では新政府軍に遠く及ばなかった為、遂に数の優位を生かせず新政府軍に惨敗したのです。

 よく「錦の御旗が無ければ旧幕府軍が勝利した」と主張する方がいますが、これだけ戦略と戦術の両面で新政府軍が圧倒していた以上、たとえ錦の御旗が登場しなくても遅かれ早かれ新政府軍の勝利は動かなかったでしょう。繰り返しになりますが、西国街道や竹田街道を進軍させずに、薩長軍が守りを固める鳥羽街道と伏見街道のみを進軍路に定めた軍議の時点で旧幕府軍の敗北は決まっていたのかもしれません。


鳥羽伏見の戦いの意義

 こうして劇的な勝利を得た新政府軍でしたが、これは単なる軍事的勝利だけに終わらず、新政府の組織に大きな変化をもたらします。上記の通り鳥羽伏見の開戦までは新政府内の主流派は公議政体派であり、倒幕派は半ば孤立した状態でした。しかし鳥羽伏見の戦いの劇的な勝利により、慶喜と連携を取ろうとした公議政体派は発言力を失い、代わって慶喜との対決を主張し続けた倒幕派が新政府内の主導権を握る事になったのです。これは公議政体派の失脚を表しますが、上記の通り公議政体派は松平春嶽や山内容堂や徳川慶勝といった諸侯が中心だったので、言わば公議政体派の失脚は新政府内の諸侯の発言力が低下した事を表します。これに対し倒幕派は大久保利通や西郷隆盛や広沢真臣など薩長等の諸藩士が中心の為、鳥羽伏見の戦いの勝利によりこれら諸藩士の発言力が増した事を表しているでしょう。
 王政復古のクーデターの際にこれら諸藩士は朝臣となったので、形式的には諸藩士と諸侯は同等の立場となったのですが、そうは言っても長い封建時代のしがらみから諸侯の諸藩士に対する優勢は変わらなかったのですが、鳥羽伏見の戦いの勝利はこの力関係を逆転させ、鳥羽伏見の戦い後の新政府はこれら倒幕派の諸藩士達に指導される事になります。この様に新政府内の実権が公議政体派の諸侯から倒幕派の諸藩士達に移った事こそ、鳥羽伏見の戦いの最大の意義だったと言えるのではないでしょうか。
 そして倒幕派の諸藩士達に率いられた新政府の追討を決め、各地に新政府軍を派遣する事により国内最後の全国規模的な内戦となる戊辰戦争が始まる事になるのです。こうして始まった戊辰戦争ですが、その期間の新政府の組織は初期こそまだ諸侯が要職を占めていましたが、戊辰戦争を戦い抜くに従い次第に諸侯達は閑職に回され、明治初期には遂には政治の表舞台から姿を消す事になります。そのような意味では鳥羽伏見の戦いの勝利は新政府も旧幕府も関係なく、それまで政治の実権を握っていた諸侯達の政治的発言力を奪うきっかけとなったと言えるのではないでしょうか。


新政府軍の部隊長名
 本文中は新政府軍の薩長両藩兵の部隊長名が書けなかったので、ここで纏めて記述させて頂きます。

薩摩藩兵
総参謀:伊地知正治
城下士小銃一番隊長:鈴木武五郎
城下士小銃二番隊長:辺見十郎太(隊長内山伊右衛門病気の為に、辺見が指揮)
城下士小銃三番隊長:篠原国幹
城下士小銃四番隊長:川村純義
城下士小銃五番隊長:野津鎮雄
城下士小銃六番隊長:市来勘兵衛
城下士小銃七番隊長:新納軍八
城下士小銃八番隊長:野元助八
城下士小銃九番隊長:樺山資紀
城下士小銃十二番隊長:伊集院与一
外城一番隊長:村田経芳
外城二番隊長:土持雄四郎
外城三番隊長:有馬誠之丞
外城四番隊長:中村源助
私領二番隊長:鮫島八十朗
兵具一番隊長:川路利良
大砲一番隊長:中原猶介
大砲二番隊長:大山巌
 薩摩軍の一隊は約120名程で編成、内実際の戦闘兵が80名程の中隊編成。

長州藩兵
総参謀:山田顕義
第一中隊(奇兵隊)軍監:福田侠平、隊員110名
第二中隊(遊撃隊)参謀:後藤正則、隊員97名
第三中隊(整武隊)参謀:田村甚允、隊員97名
第五中隊(振武隊)参謀:石川厚狭介、隊員97名
第六中隊(第二奇兵隊)軍監:世良修蔵・林友幸、隊員125名
第八小隊(膺懲隊)隊長:平野光二郎、隊員40名


主な参考文献

「戊辰役戦史」:大山柏著、時事通信社
「復古記 第9巻」:内外書籍
「戊辰戦争」:原口清著、壇選書
「戊辰戦争論」:石井孝著、吉川弘文館
「戊辰戦争〜敗者の明治維新〜」:佐々木克著、中公新書
「三百藩戊辰戦争辞典」:新人物往来社

「薩藩出軍戦状 1〜2」:日本史籍協会
「防長回天史 第6編上」:末松春彦著
「防長維新関係者要覧」:田村哲夫編、マツノ書店
「鳥取藩史 第1巻」:鳥取県立図書館
「鳥取藩史 第一巻・六巻」:鳥取県編
「鳥取市史」:鳥取市役所
「芸藩志 第17巻」:文献出版

「昔夢会筆記」:平凡社
「徳川慶喜」松浦玲著、中公新書
「幕府歩兵隊」:野口武彦著、中公新書
「会津戊辰戦史」:会津戊辰戦史編纂会
「テン城温故会報告 第14回」:テン城温故会編 
「藤堂藩伊賀城代家老日誌 下巻」:上野市古文献刊行会編
「津市史 第1巻」:梅原三千著、津市
「三重県史 資料編近世4下」:三重県編


参考にさせて頂いたサイト
隼人物語様内「戊辰侍連隊」
幕末ヤ撃団様内「戊辰戦争兵器辞典」

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