その日は風が強かった。
 朝は窓のガタガタと揺れる音で目覚め、いつもより幾分働かない頭をおしてベッドから起き上がると、いい匂いが漂ってきた。
「おはよう、アルフォンス」
 昨日は昼過ぎまで休んで夕方からお使いに行ったり店に出たりと働いていた青年はもうすっかり顔色もよくなって、フライパンと向き合っていた。
「おはようございます、エドワードさん」
 まるでもう数ヶ月こうして暮らしているような気持ちになるが、まだ一週間だ。テーブルについて紅茶を待っていると、ほどなくして青年が持ってくる。
「そろそろかな」
「何がですか?」
「合格したってご両親に連絡いれちゃあどうだ? いまさらこんなことをオレが言うのもなんだが、きっと心配なさってるだろうし」
 音を立てて紅茶が零れた。入れなおそうとする青年を、このままでいいと制する。
「まだ連絡してないんだろう? 電話なら下のを使っていい。そうじゃなきゃ電報だっていい。難関に合格したんだからさすがにおまえのご両親も考え直してくれるんじゃないか」
 青年は「エドワードさんがそうおっしゃるなら……」とあまり気乗りしない風だった。が、朝食後にその背中を押して無理やり電話の前に立たせた。
「……アルフォンスです。父か母に代わってください。はい、お願いします」
 電話に出たのはおそらく使用人だろうが丁寧な口調は崩さない。生来の気質もあるだろうが、使用人相手にも敬意を払うよう躾けられたのだろう。
 少し離れているから電話の向こう側の声は聞こえない。もとより聞くつもりはないが、一瞬青年がぴくっと動いたので両親のどちらかが出たのだと思った。
「……ごめんなさい」
 電話の相手には見えないのに、青年は頭を下げた。
 表を通り過ぎる車の音が何度もして、彼方にあった雲が日陰を作るまで、青年はずっと、泣かないでとごめんなさいを繰り返す他は何も言わなかった。
 親というものはいいものだ。世の中にはろくでもない人間もいるが、たいていの親はこどもの身を一番に案じて、心をくだく。だから親に心配をかけるようなことをしてはいけないと思う。
 しかし、こどもが心から望むことを叶えられるように手助けをするのも、親のするべきことだ。すでに親を亡くしてしまった己の理想論ということはわきまえているが、青年はまだ若い。望む道に挑戦する機会すら奪われてしまうのは不憫だ。
 と、だいぶ青年寄りの立場であることに何か理屈をつけようとする自分が可笑しくなった。あれこれ考えても結局、彼が好きなようにすることを自分が望んでいるだけなのだ。
 似ているから。
 とてもよく似ていた、から。
「ごめんなさい、でも家には戻りません」
 物思いから覚めた途端、こんな言葉が耳に飛び込んできた。
「僕は勉強したい。今はまだ、家を継ぐことは考えられません。わがままを言っているのはわかっています。でも、っ……いえ、それは……」
 青年が一瞬だけ振り向いた。目の錯覚かもしれないが、すがるような表情だった。理由に思い当たって軋む椅子から立ち上がると、受話器を放そうとしない青年の手から強引に奪う。
「お電話代わりました。初めまして――」
 名乗る間もなかった。相手は青年の父親であることを告げたうえで慌しく続ける。
『息子がご迷惑をおかけしました。すぐにこちらを発って迎えに参ります』
「今からですとこちらに到着なさるのは夜も遅くになるでしょう。明日、日のあるうちにいらして、アルフォンス君とゆっくり話し合われてはいかがでしょうか」
『……あなたにはお世話になりましたが、関係のないこと。これは私どもと息子の問題です。今から発ちます』
 失礼しますと締めくくって電話は一方的に切れた。
「切られちまった。ごめんな、もっとうまく言えたらよかったんだけど」
 隣を見上げたところ、そこに青年の頭はなく、視線を下げていくと綺麗なつむじが見えた。
「すみません、またご迷惑――」
「ストップ。まず頭あげろ。そう、その位置で固定。いいか? 親御さんが夜にもいらっしゃる。なんと言われてもオレも同席するから。面と向かって説得してみろ。……出来るな?」
 不安そうな面持ちの青年は一旦ぎゅっと目をつぶって気合を入れると、ゆっくりと頷いた。

「さて、問題が一つある。この場合、わりと切実かもしれない」
「なんですか?」
「オレがバイってこと。やっぱ心配になるだろ、息子がそういうとこに住んでるってのは」
「僕は気になりません!」
「いや、おまえが気にしなくても親御さんは別。どっかからバレると困るよな。きっとオレのこととか周りの人に聞くだろうし。とりあえず目ぼしいとこに口止めして、誰かに婚約者にでもなってもらって師匠にも話しといて……師匠にも同席してもらうか。間接的にお前の保護者みたいなもんだし」
 べらべらとしゃべる間に何度も青年は口をはさもうとしたがこの際無視することに決めた。どうせ「そこまでしていただくわけには……」とかなんとかでまた遠慮するに違いない。ここまでするわけは青年にあるのではなく自分自身にある。
「誰に頼もっかなー……あー、あとあいつだな……」
 ぼそぼそと呟くと、青年が怪訝そうな面持ちで首をかしげたが、青年の前で「マスタングに頼むのなんかものすごくいやだけどしょうがないから頭の一つでも下げるか!」なんて言えるわけがない。せめて他の教授陣に青年が惚れててくれればよかったのに、と八つ当たり気味に恨むばかりだ。
 最後だけは気が重いが、そうと決まればすぐに行動に移すに限る。早速今日の閉店を決めると、青年をハボックの家へ走らせ、その間によく顔を出す酒場やら宿屋を回った。こういうとき、普段あまり恨みをかうような性格をしていなくてよかったとしみじみ感じる。マスタングに関しては、あれで他人に刺されないのが不思議なくらいだ。
 店に帰ると、戻ってきた青年をともなってイズミの家で簡単に事情を説明し、快諾を得て、大学へ向かった。足がどうにも重くなるのは仕方が無い。
 研究室のドアを開けてくれたのはマスタングの助手だった。
「あら、久しぶりね、エドワードくん」
「ご無沙汰してます、リザさん」
 金色の滑らかな髪をきっちりと後ろに纏め上げた女性は、以前見た通りに背筋のぴんと伸びた立ち姿で美しい。
 マスタングとホークアイの二人と向かい合って状況を話すと、マスタングは一つ返事で引き受けてくれた。正直、なにか条件の一つや二つでも呈示されると思っていたので拍子抜けした。
 そして婚約者を仕立てる云々の話をすると「私がやろう!」とかはりきって馬鹿が宣言したので、思わず手が出た。
 ソファーとローテーブルの間にうずくまって頭を抱える馬鹿をあきれた目つきで見ていると、意外にもホークアイが手を挙げた。
「私がやりましょうか」
「え?」
 願ってもない申し出だ。彼女なら気心が知れているし、マスタングの助手である以前にこの大学関係者を身内に持ち、身元がしっかりしている。
「ホントにいいの?」
「構わないわ。教授を羨ましがらせる機会なんて滅多にないもの」
 はっきりきっぱり言い切ったホークアイは、長い裾裁きも美しく立ち上がる。
「では祖父のところに行きましょうか。婚約者として改めてエドワードくんを紹介しなくては」
「ちょ、ちょっと待ちたまえ! まさか本気でエドワードと――」
「何をおっしゃってるんですか、教授。人づてにこの話を祖父が知ったらややこしくなるに決まってますから、先に話を通しておくだけです」
「だいたい君は私が同じようなことを頼んだときは、冷たく、こう、蔑むように切り捨てたじゃないか! なんでエドワードの頼みだと引き受けるんだね! しかも嬉しそうに」
「日頃の行いの違いです」
 いつものやり取りを眺め、ふと隣の青年が気になってそっちを見ると、青年はぽかんと口をあけていた。手数をかけて申し訳ないと気に病む暇もなさそうだった。

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