名前だけは知っていても その実体が良く分かっていないというのが結構多いものだ。三井寺もそんな一つだった。三井寺は本来「園城寺」というのだが、三井寺の方が通りが良い。この寺名の謂れも面白い。天智・天武・持統天皇の産湯を汲んだとされる閼伽水(あかすい)と呼ばれる井戸があったことから「御の井」と呼ばれるようになり、これが三井寺というようになったとのことだ。大化の改新から律令制度による国家運営を目指した歴代の天皇、しかも兄天智天皇の子を破り大王についた天武天皇、その天武天皇の后で尚且つ天智天皇の娘という持統天皇という複雑な関係を持つ夫々が、ここ三井寺で一つで結ばれているのも面白い逸話と思える。この三井寺を再興したのが、円仁(慈覚大師)と共に天台密教を確立したといわれる第五代座主円珍(智証大師)で、一時期は、比叡山や東大寺、興福寺と並ぶ「四箇大寺」まで発展をしたことがあった。その後、円仁の弟子と円珍の弟子との間で教義の食い違いから円珍の弟子集団が、比叡山を下りここ三井寺を本拠として活動を開始した。しかし、その後比叡山が七回に及ぶ三井寺への襲撃を加えたといい、又源平時代や南北朝時代そして豊臣秀吉による破却命令などで、度々の苦難を味わってきたが、秀吉よりの再興許可を得、北政所や諸大名の寄進などを受け今日に至ったという。こうした日本の歴史縮図を見るような時の流れを包み込んでいる三井寺。その三井寺の事を良く知らぬまま訪れたのであった。 |
京阪石坂線三井寺を下車し、琵琶湖疏水の流れに従って歩く。しばらく歩くと、山の下の疎水トンネルが見える。ここから疎水は山科を通り、再び東山を超え蹴上に出る。そこから一気に下り、鴨川へ流れていく。遷都による消沈した京都の活力を高める為計画された疎水工事は1890年(明治23年)に完成した。この琵琶湖から約11kmに渡る工事は当時では大工事であったに違いない。そんな思いも抱かせないような静かな疎水の始まりがここにある。
三井寺へ向かうべく歩を進めていたが、何となく左方向へ曲がり、登っていった。そこに観音堂があった。西国第十四番札所で本尊は如意輪観音で秘仏。高台にあるせいか明るい感じで、境内の観月舞台からは大津市街が見渡せる景観の良いところだ。
観音堂から三井寺の金堂への参道が続く。参道を進むと直ぐに毘沙門堂があった。1616年(元和2)に建立され、優美な建物だ。
三井寺の金堂。元々の本堂は、秀吉の命で比叡山の西塔に移され、今も釈迦堂としてある。その後、再建が許可され、北政所によ1599年(慶長7)により以前とほぼ同じ大きさで再建された。内陣には、天智天皇から賜ったとされる絶対秘仏の弥勒菩薩が祀られているという。
三井寺の沿革
天台寺門宗総本山
長等山園城寺(ながらさん おんじょうじ)通称三井寺
686年(朱鳥元) 大友与多王の寄進により創建
859年(貞観元) 円珍が伽藍を再興
866年(貞観8) 比叡山延暦寺の別院となる
993年(正暦4) 円珍の弟子たちが比叡山から移る
1081年(永保元) 初めて比叡山より焼き討ちにあう
1595年(文禄4) 豊臣秀吉より破却
1598年(慶長3) 伽藍の復興はじまる
金堂までの道は、森の中を歩くような感じにもなる気持ちが良いところだ。参道の道端には、仏像が安置されている。可愛い感じの仏像が安置されていて、何となく心が安らぐ。南無量現音菩薩としてある。
近江八景の一つとして有名な鐘楼が、金堂の境内にある。1602年(慶長7)の再建。宇治の平等院、高尾の神護寺と共に日本の三銘鐘といわれている。
一方初代の梵鐘で奈良時代の鋳造といわれている鐘が展示されている。この鐘には面白い逸話が残っている。比叡山の僧兵だった弁慶が戦利品としてこの鐘を引き摺って持ち帰ったが、鐘の音が「イノー(往のう=帰ろう)」と聞こえたため、弁慶が谷底に突き落としたという。この鐘には無数の傷跡があり、比叡山に持ち去られたのは事実らしい。
金堂と観音堂の間に唐門がある。唐門の由来は、円珍が入唐求法の旅で持ち帰った経典類を納めたことに由来している。唐門をくぐると、密教を伝承する道場の潅頂堂、そして徳川家康から1601年(慶長6)に寄進された三重塔がある。この三重塔は、奈良大淀町にあった比蘇寺の東塔を、秀吉が伏見城に移築し、家康が三井寺に再び移した。三井寺のかっての金堂といい、又 仁王門といいこうした移築する建屋が多く、木材建築の有用性を感じる。
三井寺の表門にあたる仁王門。この日は観音堂から入山してしまったこともあり、既に日が仁王門の裏手にある。この仁王門も徳川家康により1452年(宝徳4)滋賀県内の常楽寺に建てられたものを伏見城へ移し、さらに1601年(慶長6)に寄進された。
比叡山との戦いを象徴するように、こうした高い石塀を見受ける。今でも、かっての争いの跡を思い知らされる。