舞踏論


          

 私は舞踏論など嫌いです。
 口で言うだけならどうとでも言えます。行動や表現にこそ真実があるから。

 それでは、なぜ書くのか?

 暗黒舞踏は否定される(あるいは無視される)ことが多いです。
 暗いモノ、汚いモノ、醜いモノ。
 怖いモノ、残酷なモノ、悲しいモノ。
 そういった、あらゆる異端なモノが淘汰され、全てが均一化されていく21世紀にあって、暗黒舞踏という存在自体が抹殺される、あるいはファッションとして取り込まれようとしています。
 別に社会論を振りかざすつもりはないです。社会的メッセージを発するために踊りをやる人間はいないでしょう。
 ただ、そういった”夜が終わっちまう”時代の到来を前にして、自分はまだ何一つ成し遂げていないじゃないかという焦燥感が強いのです。自分の中の無力感、他人の無理解。
 言葉は無力だけれど、身体と力を合わせればより大きな武器となるはず。他人の批判や自己主張に使うのでなく、踊りとの共同作業として言葉を使っていくのなら許されるのではないでしょうか。

 舞踏ではよく、「身体ひとつで表現する」という概念があって、モノに頼らず衣装にも凝らず、ひたすらシンプルに踊るのが潔しという考え方なのだけれど、私はそれには反対です。
「身体ひとつで表現」できるように普段から稽古しておくことは重要だけれど、本番でそれをするかどうかはまた別問題。たしかに身体だけでいろいろなものを表せる表現力は必要だけれど、それも限界があります。舞台では時に、背景・行為・キャラクター・感情など幾多のことを表現しなければならず、それらを常に身体ひとつで背負うことは、無駄な力の浪費につながるし、表現力も削がれがちです。
 要は、その人の表現したいモノが身体ひとつで表現しきれるモノかどうか。その辺、舞踏の枠にこだわる必要はないし、衣装や舞台美術、などに頼ってもいい。舞踏以外の要素を取り入れることもいいでしょう。
 観客の側からの要求でもいろいろなものがあります。ダンスが観たい人、感覚的・即興的なモノに惹かれる人、ドラマチックな流れを求める人、など。そういう反応を受け止めつつも、自分のやりたいことを貫いていくのが本当の表現なのでしょう。
 私の場合は、台詞や物語性を入れることが多いのだけれど、これも、自分を表現するのに最も有効な手段だと思うからです。

 舞踏(よくも悪くも拘りがある)では、「無意識」ということも重要視します。
 ただし、それは開放的な無意識へと向かいがちです。 口幅ったいようだけど、もっと内向的な、意識しきった上での無意識を捉えたい。
 身体の感覚でも、即興性等を重視して感じたままに踊るより、身体の内奥を見据えて、暗く重く収縮した歪んだ踊りがしたい。内面を意識しきったことで出てくる未知の力の奔流に身を任せ、意識を飲み込ませたい。
 作品形式にしてもそう。物語性や台詞など、意識的・計画的な手段を用いて、意識しきった上で、自分の内奥にある暗い真実の領域に足を踏み入れたい。そうじゃないと(少なくとも自分の場合は)深い階層までは降りていけないのです。
 きっと、暗黒舞踏というより、暗黒そのものに興味があるのでしょうね。

 身体と心の暗部、そこに真実があります。普遍的なモノ、自分という人間の動かざる存在理由。社会的価値観やモラル、さらには感情や、表面的な身体の特徴からも解放されて、自分のなかで最も触れてはならない禁忌へと辿り着き、舞踏という、身体を裏返しにする行為をもってそれを白日の下へとさらけ出す。
 日常生活の中で虚偽にまみれ手垢の付いたかりそめの自分を葬り去り、暗黒領域(私にとっての人外境)へと旅立っていく。
 私にとっての暗黒舞踏は、そういうものだし、これから時間をかけてその道を進んでいきたいと思っています。

          

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