踏み絵する娘

 


 



          

 「次の者、前へ」 お代官様が声をかける。 少し前にいた長屋の隅に棲んでる謡曲の師匠が進み出る。
  あと二、三人であたしの番。長い髯をした半裸の男が磔刑にされた銅板画が地面の上に置いてある。それを踏みつけてきた幾十人もの足の下で身悶えながらもその男は悟りきったような表情を崩さない。
  切支丹、伴天連の妖術師、幕府転覆の陰謀、そんなことはここでは誰一人信じちゃいない。役人達もお上から言われたことにただ従ってるだけ。民衆も面倒に思ったり、物珍しげに感じたりはするもののがやがや騒ぎながら羊みたいに列をなして自分の番を待っている。
  なぜだろう、自分のなかで疼くような不吉な予感がする。だけどそれは新しい何かをあたしに授けてくれるようなそんな気もする。
 「次の者、前へ」同じ台詞、同じ表情。同じことを何回となく繰り返してきたんだこの人、今日だけでなくいつもいつも同じような職務を繰り返し結果だってそう変わりやしない。そういう永遠て美しい。いつまでも変わりないからいつまでも若く美しく老いることのない未成熟の澱んだ血。
  草履からそっと右の足を抜き取り、前の方へ差し出す。いま、あたしの足は空気のなかをすり抜けて少しずつ降りていく絵の上へ、堕ちていく堕ちていく銅板の上に彫り込まれた男の体の盛り上がった胸の辺りに着地点を定めて。落下を阻むものはもう、踏みつけられるのを避けるように周囲へ逃れてく空気だけ。
  着地したその瞬間に爆発するような白熱が肌を伝い、瞬時に脳から分泌された不随意の運動は脈絡のない月のものの開始となって顕れる。腿を伝う粘り気のある血液の流れは足先にじわじわと広がる痛みと熱とで蒸発し、ついに踝と出会うこともなく赤い水蒸気となって立ち昇る。
  足裏の熱は水ぶくれて広がっていき、ポンと弾けてじくじくした膿汁垂れ流す。
  見る見るうちに腐りとろけていった右足は甲の部分を浸食し、踵までをも喰い尽くす。
  ぽとぽとと肉の一部を滴り落としながら軽くなっていく肉体の浮遊感と、焼ける痛みの内燃機関に促されてあたしの肉体はふわふわと宙へ舞い上がる。
  それまで事のいきさつに息を飲み、微動だに出来ずにいた群衆の体の呪縛が溶け、どこか安堵感の混じったどよめきが生じる。
  あたしはと言えば、着物の袖の翼はためかせ、もっと高く、もっと高みへ。イカロス? いいえ、あたしは吸血鬼。聖なる印の御力に触れ、哀れ大根おろしのように擦りおろされて空飛ぶあたしが浮かぶ秋の夕暮れ。
  小さくなっていく眼下の人の粒のなかで「逃すな、追え!」という叫び声が上がりご苦労様にお役人達があたしの後を追ってくる。
  少しずつ少しずつ壊死しながらぽろぽろとこぼれていくあたしの体が宙に舞い、最初は膿み爛れて湿っていたそれらは地表に近づくにつれ乾燥し、細かい粉末状になってさらさらと追っ手の頭上に降りかかるよ。
  もう到底追いつくことは無理だろうに、伴天連のお伽噺に出てくるヘンゼルとグレテルのように地に堕ちた粉の後を辿りながら、やがて彼らが見つけるのはお菓子の家ではなく小さくなったあたしの最後の一片。
  そう、既に存在を続けているのはあたしの乳房から上の半身のみ。ばらまいてしまった肉片はもうあたしじゃなくなってしまった過去のあたしの懐かしい想い出。それももうすぐ薄れ消えて行く・・・。


  西の山を越えて、白く煤けた埃を撒き散らしながらだんだんと薄れ行く娘の姿は、同じ方角へと沈み込む燃えさかる夕日のなかへなかへと吸い込まれていくようで、それを見つめていた人々は何か触れ得ざるような厳かさをおぼえ、その場にいつまでも立ち竦んでいたという。