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「いぬぢる版 未来日記 その2」
最後の頁に指がかかり、いましも人生最後の日の出来事を垣間見ようとしている。
"運命の書"。
持ち主の未来が悉く記された奇蹟の書物。それを手にする者に与えられるのは果たして栄光か、挫折か?
まさに自らの運命をかけてオレは頁をめくった。
準備は万端、整った。
今日は現きよい荘大家当主、K川トメの百歳を迎える誕生祝賀会だ。
こういった晴れの舞台にはそれだけ警護も厚くなるものだ。たった二人で殴り込みをかけるのにはかなり厳しい。
それにもかかわらず、この日を討ち入りに選んだのには訳がある。巨悪は大衆の目の前で倒してこそ意味があるのだ。
なんだか赤穂浪士みたいだな、そう言って笑うと、大塩の爺さんはフンと鼻で笑ってそっぽを向いた。無理も無い。長年の恨みが積もっているのだ。復讐を遂げるまでは愉快な気分などになりはすまい。
この日に備えてリハビリを重ねてきた爺さんの躯は、往年とまでは行かずとも年齢よりははるかに若く矍鑠としていた。ああ見えても、若いころは闇市の出入りなどで随分と斬った張ったの修羅場を乗り越えてきたようだ。
K川家のパーティーはいつも自宅の庭園で行われる。あれほどの財力さえあれば目黒雅叙園だろうが品川プリンスだろうが丸ごと借り切るだけのことはできそうなものだが、元来締まり屋の大家は無駄な出費を良しとしないのだ。
K川邸の門前では、辮髪を垂らし上半身裸の筋骨隆々とした男たちが訪問客たちをチェックしている。おおかた黒社会の人間だろう。
タキシードで正装したおれは、毎年出席していることと、いままで家賃を滞らせたことがないこともあって(年に一度くらい遅れるか?)、大家のウケはいい。こいつら門番たちもおざなりなボディチェックだけで通してくれた。
大塩の爺さんも、昔飼っていたペットに変装させ首輪をつけて会場に連れ込んだため、なにもうるさいことは言われずに済んだ。
祝賀会とはいってもなにも大したものではない。庭に幾つものテーブルが置かれた立食形式のパーティーで、出席者のほとんども、K川家の持ち物であるアパートの店子たちだ。要は大家としての権勢を店子たちに見せつけようというだけの話だ。
今回も赤羽中から駆けつけた店子たちが安っぽい料理を前におあずけを食わされ、会の進行をいまかいまかと待ち構えている。
そんな彼らをたっぷりと待たせた上で、屋敷の玄関が開き、長女のマツが姿をあらわした。年甲斐も無く、ひらひらと袖をはためかせた真っ赤なイブニング・ドレスを身につけている。
店子たちは一斉に地へとひれ伏した。オレも彼らに倣う。爺さんも一瞬の躊躇の後、額を地に擦り付ける。その躯が屈辱に震えているのはまあ仕方が無いことだろう。
マツ子が長椅子へと腰を下ろしたタイミングを見計らい、司会進行を勤めていた婿養子の英心がサッと手を掲げた。
上体だけを起こした店子たちの、唱和する声が響く。
「大家は永遠に栄え、その権勢は世に並ぶ者無し!」
「我ら常しえに賃貸契約を守り、大家を崇め奉らん!」
何十回となく繰り返される賛美の言葉に酔いしれながら、マツ子はゆっくりと立ち上がり、民衆に向かって手を掲げた。
「賃貸住宅住まいの下層階級の諸君。今日はご苦労。
「今日は、わが母にしてK川家当主、K川トメの百歳を迎える祝賀の席である。これからも日々汗水たらして働いて、滞ることなく家賃を納めるよう鋭意努力するのだ」
「ははあ!」
再びひれ伏す店子たち。オレもこれを毎年やってきたのだ。
そんなオレたちを見て満足気な顔のマツ子は、玄関の方を向き、うやうやしく差し招くように手を伸ばした。
「それでは母上、ご登場を」
しばしの静寂の後、二階の階段から何かが這い降りてくるズルズルという音が聞こえ、 やがて玄関の扉がゆっくりと押し開かれた。
豪奢な衣装に身を包んではいるが、隠しようもなく肥大した醜い脂肪の塊を波打たせ、K川家の家長にして赤羽中を支配下に置く影の実力者、K川トメが姿を現した。
めいっぱいに開かれている扉だが、トメの巨体はそれですらも狭いようで、少しずつ肉塊を押し出すようにして外へこぼれ出てくる。
ズルズルと長椅子のほうへと這うように移動し、特注の長巨大椅子へとどっかと腰を下ろした。
その異様な存在感に気圧されて、大衆は息をするのも忘れてひたすら地に跪くだけだった。
トメは虫けらを見るような眼で店子たちを眺め、ぶふうと一声呻くと、娘に向かって首をしゃくった。
それだけで意味が通じたのか、マツ子は屋敷のほうへとよく響く声で言った。
「あれを持ってきなさい」
恐らく厨房の裏口だろう。狭い扉が開き、二人の筋骨隆々とした召使いが、暴れている若者を引っ立てるようにして連れてきた。
よく見ると、やつれてはいるが、その昔隣室に住んでいた緑川くんだ。家賃を10ヶ月滞納した挙げ句夜逃げした剛の者だ。店子たちの間で密かに英雄視され伝説化されていた人物だったのだが・・・。
「助けてくれ〜! ぼくが悪かったよ。これからはちゃんと毎月家賃払うから!」
緑川くんは恥も外聞も無く泣き喚いた。男たちは意に介さず、無表情に彼を引きずっていく。
「さあ、おまえたち、中国4000年の歴史を見せておくれ!」
マツ子の催促を受けて男たちは背中に隠し持っていた巨大な出刃包丁を取り出すと、それをぶんぶんと振り回しだした。そして・・・。
いきなり緑川くんの体が横にずれた。
目にもとまらぬ早業で輪切りにされた彼の体は、大根のように輪っかになって、危ういバランスを保ちながらもその場に立ち尽くしている。
「ひでぶ〜」
一声残して生き絶えた彼の体から、ゆっくりと鮮血が滴り始めた。
「こりゃ美味そうだね。母上、上物の肉料理です。お召し上がりください」
「うむ」
うなずいたトメは、元・緑川くんであった肉の輪っかを一枚引っこ抜くと、そのままフォークも持たずに口の中に放り込んだ。
舌鼓を打ちながら食べるトメ。
「うんま〜い!」
引き続き2枚目にとりかかる。
恐れおののく店子たちを前に、マツ子が念を押すかのように言った。
「いいかい、家賃を滞納するとこういう羽目になるのさ。覚えておおき」
その言葉を聞き、殆ど全ての人間は、口も利けずにぶるぶると震え上がった。
だが、その中でいきなりすっくと立ち上がった者がいる。
「もう許せん!」
傍らにうずくまっていた大塩の爺さんだ。老いたりとはいえ硬骨漢。あまりの非道を目にして辛抱できなくなったのだろう。
だが、このタイミングはまずい。まだ早い。本当は誕生日の貢物としてペット(つまり大塩の爺さん)を差し出し、隙を突いて敵の懐を抉るという作戦だったのに。
「××、この儂を忘れたとは言わせんぞ!」
爺さんは、K川を旧名で挑発した。
我関せずの様子で肉を食べつづけるトメの代わりに、マツ子が驚きの声を上げた。
「おまえは大塩公八郎! 生きていたのか」
「そうとも。きよい荘は、縁の下の暗がりで、儂はミミズやコオロギを喰らい、屈辱の生を生きてきたのじゃ」
大塩の名を聞いた店子たちの間に動揺のざわめきが走った。先代大家の名前は噂に聞いているものが多かったのだろう。だが、その存命を予想したものがどれだけいたか。
老人の方は勢いづき、肛門の中に隠していた匕首を引き抜いて叫ぶ。
「いまこそ復讐の時じゃ。覚悟しろ!」
これには大家一家よりも店子たちの方が色めき立った。カリスマ的だった先代大家と、K川の長年の恐怖支配の歴史、彼らにとってどちらが価値のあるものか?
悲しいことに、理想は常に恐怖の後塵を拝する。店子たちは大家の盾になるようにオレと大塩の爺さんの前に立ちはだかった。
幸い、門番や料理人の男たちが手を出す様子はない。黒社会の人間であろう彼らは、役職以外の報酬はもらっていないのだろう。静観の構えだ。
これは助かる。素人がいくら集まったところで怖くはないが、達人が相手となるとそうはいかない。
ここは機先を制するに限る。こっちから先に仕掛けて大衆の戦意を喪失させてやろうと一歩踏み出したとき、ひとつの影が立ちはだかった。
婿養子の英心だ。
いつもは影の薄い中年サラリーマン風の英心だが、このときばかりは全身から殺気を放っている。なかなかの使い手のようだ。道を誤らなければ良いいぬぢるになれたものを。
音もなく間合いを詰めて鋭い突きを繰り出してくる。左手で円弧を描いて跳ねのけ、返す動きで顎を狙った。
これをのけぞってかわし、その反動で蹴りを放ってくる。だが、これはお見通しだ。足を合わせて勢いを受け流す。
瞬く間に10合ほどの攻防が交わされたが、どちらも決定的な一打を奪えない。正攻法では勝負に時間がかかりそうだ。
意を決すると、百花繚乱の型を用いて相手の目を幻惑する。ゆらめきながら弧を描く両腕の動きに惑わされ、たまらず不用意な突きを繰り出してきたところを受け流す。すかさず一歩踏み込み、壇中穴を食指で突いて動きを封じた。穴脈を封じられ英心は塑像のように立ち尽くす。命を奪うまでもあるまい。
別に、罪を憎んで人を憎まずというわけではない。婿養子に悪人はいないというのが、オレの持論だからだ。毎朝ゴミ出ししてたしね。
強敵を倒したオレはほっと息をついた。これで後の奴らもやる気をなくしたろう。
ところが意に反して、店子たちは目前で繰り広げられた闘いの様子に興奮したのか、息を荒げて詰め寄ってきた。暑苦しいぜ、賃貸住居者どもめ!
オレは情け容赦なく拳をふるった。大塩の爺さんも匕首を振り回す。たちまちの内に、血飛沫をあげて倒れ伏す屍の山が積み上がった。
「しっかりおし! 逃げるような奴は喰っちまうよ!」
マツ子の叱咤に、店子たちは死に物狂いでかかってくる。
あまりに敵の人数が多い。最初のうちは優位に闘ってきたオレたちだが、時間の経過とともに次第に押し込まれてきた。
さすがに二人での殴り込みはきつかったか。業を煮やしたオレはたまらず叫んだ。
「どけよ、お前ら! いつまで大家なんぞに尻尾振ってる。人間としての誇りはどこにいっちまったんだ!」
「人間としての誇り?」
近くにいた若い男がぺっと唾を吐いた。
「そんなものハナからねえよ。おれたちゃ店子として生まれ、店子として死んでいくのさ」
ダメだ、こいつらはすでに身も心もアパート住まいの貧乏店子だ。一戸建てを購入しようという野心とは無縁の存在なのだ。
取り囲まれ、進むことも適わぬオレたちの姿を尻目に、トメたちはゆっくりと屋敷へと避難していく。建物内に閉じ篭られたら終わりだ。今日を逃せばおそらく次の機会は無いだろう。
このままじゃ埒があかない。行く手を阻む店子たちの群れを前に、オレは賭けに出た。
「爺さん、あれをやるぞ。井の頭公園で修行したあの必殺技だ」
「なんじゃと! あれはまだ一度も成功してない未完の技。しくじったら後が無いぞ」
「どうせ老い先短い命だ、捨ててみろ」
「よしっ、やってくれ」
交渉終了。店子たちを牽制しスペースを作ると、技の体勢に入った。
「とどけーっ」
渾身の力をこめて、トメの後姿めがけ、大塩の爺さんを体ごと投げつけた。
匕首握り締めた老人の躯は十尋近くも宙を飛び、体重を乗せたその刃は見事トメの頭に突き立った。
トメの巨大な頭のてっぺんから、まるで鯨の潮吹きのように真っ赤な血が噴出する。
頭上にしがみついた爺さんは、突き立てた匕首を握り締め、柄も折れよとばかりにありったけの力を込めてぐりぐりと刃を捻じ込める。
「どうじゃ、わが恨み、思い知ったか!」
感極まった様子で、老人は目に涙さえ浮かべている。
だが、なにか様子がおかしい。傷を負ったはずのトメが少しもダメージを受けたように見えないのだ。
露ほども痛むそぶりを見せずにK川家当主は言い放った。
「ふん、これくらいであたしを倒せると思うのかい? 血が流れたなら、新しく血と肉を補給すればいいだけのことさ」
そうして頭を大きく一振りすると、たまらず前へとつんのめった爺さんの体を、あろうことかそのままパクリと大口開けて咥えこんだ。
吃驚したのは爺さんで、頭に刺さったままの匕首に必死になってしがみつく。しばらくの間は何とかふんばっていたものの、やがて力尽き、口の中へと吸い込まれていく。
巨大な口はしっかりと閉ざされた。
丸呑みにした老人の体をしばらく口中で舐めまわしていたトメだったが、やがてバリバリという骨の砕ける嫌な音ともに、行儀の悪い咀嚼音を立てて食道へと嚥下していった。
こうして、大塩公八郎はこの世から消えた。恨みと苦痛に満ちた、長く後引く呻き声を残して。
「じいさ〜ん!」
盟友の死に、オレの中で何かが切れた。
気を溜め、店子たちの群に突進すると、手当たり次第にいぬぢるアタックを繰り出していく。久々に見せる、ダイエーセール・バージョンだ。もはやこの身がどうなろうと知ったことか。血路を切り開くまでだ。
ぐろ
ぐろ
げり
げり
げはげは〜ん!
そこかしこで悶絶の叫びが聞こえ、人の波の間に通り道が開かれていく。
そして、ついに視界が開けた。決死の形相のオレに恐れをなしたのか、もはや遠巻きに見ているだけの生き残りを後にして、オレはトメとマツ子の母娘の前に進み出た。
「いいかげんに観念しろ。おまえたちの悪行も今日で仕舞いだ。素直に負けを認めて、家賃値下げしろ!」
怯んだ様子も無く、マツ子が鼻で笑った。
「貧乏店子風情が何を言うか。世の中には生まれついての特権者、大衆を支配する貴族階級というのがあるのさ。それもわからずに楯突くやつは・・・、あれ〜っ!」
最後まで台詞を言い切る間もなく、マツ子の口から悲鳴が上がった。
トメによって高々と宙に持ち上げられたマツ子は、事態がつかめず叫びたてた。
「お母様、何をするのですか!」
「おまえは昔からドジで愚図で役に立たない子だったよ。せめて最後だけは、母の役に立ってお死に」
そう言うと、トメは娘の体を思い切りオレに向けて投げつけた。
「ひいい〜っ!」
悲鳴を宙に残しながら飛んできたその体は、地面に落ちると同時に爆発した。
骨が、内臓が、眼球が、脳味噌が、周囲へと四散する。体内に小型爆弾が仕掛けられてあったのだろう。大塩の爺さんを投げつけたオレの技よりも数段恐ろしい、非道の手だ。実の娘を人間爆弾として使うとは。
だが、甘い。人外境で生まれ育ったオレに外道の技は通用しないのだ。
弾け飛ぶ肝臓に飛びつき、一緒に吹き飛ばされることによって、爆発の威力を中和したオレは、爆風が収まったときすでに別の位置に移っていた。
そこはトメの背後。獲物をしとめるのに最適のポジションだ。
両手を組み合わせ、指先の骨にありったけの気を集中する。
大家の巨大な臀部の中心に、狙いを定める。これで終わりだ。
必殺のいぬぢるアタックを叩き込んだ。
「ぐろぐろげりげりげはげは〜ん!」
断末魔の叫び声を期待したオレだが、耳に飛び込んできたのは、くぐもった笑い声だった。
「ぐふぐふぐふふふふ。なんだか、くすぐったいねえ。最近、便秘気味だったからちょうどいいよ」
効いてない。オレは驚愕した。
その瞬間、大家の尻から爆風が生じ、強烈な悪臭を放つオナラをまともに喰らって、オレの体は跳ねとんだ。屋敷の壁へと叩きつけられる。
ずるずると地へと崩れ落ち、力なくへたり込んだオレの脳裏に絶望の二文字が踊った。
最も強力な技が通用しない。
他に何の手の打ちようがある?
薄れゆく意識の中で、不意に昔のことが思い出された。
前にもこんな場面があったな。
あの時も死を覚悟して、無防備に身を晒していた。
同じだ。免れていた終わりのときが、少しばかり遅れてやってきたというだけの話。
これで楽になれるのか。
覚悟を決めて目を閉じた。
いや、違うな。あの時と今とじゃ事情が違う。
あの、絶情谷の決闘では死ぬ理由があったが、いま大家にくれてやる命はない。命を捨てる時は自らで選ぶ。そのくらいの自由は、まだオレにも残されているはずだ。もう少し、もう少しだけ何ができるか試してみようか。
重い体を引きずってなんとか立ち上がった。
こんな話がある。
厚いコートを着た旅人をターゲットに、太陽と北風が争った話だ。
北風は冷たい風を旅人の体に叩きつけ、旅人の体からコートを剥ぎ取ろうとした。だが、旅人はコートを失うまいと一層強く襟を抑え、ついに北風は目的を果たせなかった。
対する太陽は、灼熱の陽光を降り注ぎ、旅人の肉体を燃え立たせる。コートの内側に膨れあがった高熱にあぶり出され、耐えかねた旅人はついにコートを脱ぎ捨てた。
内と外から働きかけた太陽が勝利をモノにした。そんな寓話だ。
大塩の爺さんが敗れたことからも、大家には外側からの攻撃は通じないことがわかる。
いぬぢるアタックが無効化されたことで、内側からの攻撃も無駄だ。
唯一、通用するとすれば、内側と外側から同時に圧力を加えることだ。いまのオレにはそれに賭けるしかない。通用するかどうかは神のみぞ知るってとこだ。
大家は勝ち誇った態度で歩を進めてくる。よろけるふりをして前に踏み出し、瞬時にして懐に入り込んだ。
巨体に絡みつくようにして最後の技を放つ。
いぬぢるアタックと、うらがえる陰嚢と、二つの必殺技を同時に繰り出した。
陰と陽、内功と外功の両極に位置するこれらの技は、本来ならありえないはずの絶妙のバランスをもって大家という巨大な肉塊へと炸裂した。
内部からの破壊と、外部からの圧壊。いわば極小のブラックホールとホワイトホールの同時発生によって、通常の物理的攻撃を受け付けなかった大家の体がいま、軋み、のたうち、捩れ始めている。あれほどに大きく圧倒的だった肉の塊が、だんだんと細く、薄くなっていくのだ。
それでも暫くの間は、いままで味わってきたこの世の栄華に縋り付こうと腕を伸ばしていたが、それも二次元の平たい皮へ化し、やがて時空の狭間へと消えていく。
「や・ち・ん・は・ら・え・〜・・・」
最期に残した台詞がこれだ。
あとには何も残らなかった。
恨みも欲望も、過去も未来も。
すべては終わった。
生き残った店子たちは、大家が死んだことで縋るものを無くし、呆然としてしゃがみこんでいる。
黒社会の男たちは組織への報告があるのだろう。いつのまにか姿を消している。
そしてオレは・・・
体に力が入らない。ぼろぼろでもう立つこともできやしない。先ほどの一撃で内傷を負ったようだ。
息を深く吐き出すと咽喉が詰まり、黒い血が吐き出された。
どうやら、この傷は致命傷だな。
そんなことを考えながら空を仰ぎ見た。
流れ出していく命とともに、薄れていた記憶が蘇る。
怪しげな場末の酒場で背徳的な夜を過ごしたっけ。
顔のない女がオレを愛してくれたっけ。
そんな記憶ももうすぐ消え去っていく。
・・・なんだか空が、青いや・・・。
"運命の書"か。本を閉じ、静かに目を閉じた。オレに残された時間はあまり無いようだ。
未来は決して変えられないかもしれない。過去の全ては、報われぬ未来とともに死に絶えるだろう。
だが、そこまで至る道程は決して無駄にはならない。そう信じたい。
全てが終わるその日まで、もう少し足掻きつづけてみようか。
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