闇市の少女 ゼロ

 


 



          

  事の起こりはある雨の日の寄り道でした。
 
当時、小学生だったあたしは学校からの帰り道、公園の中を突っ切って行くことにしました。小さい子供にはよくありがちなことですが、水溜まりに長靴で踏み込んでバシャバシャと飛沫をたてるのが大好きだったのです。
 
その日も長く伸びた水溜まりの小川を辿り、下水へと流れ込んでいく緩やかな川下りの小旅行。赤い長靴、ゴム底の跡が水底に残ります。
  子猫は砂場の後ろ、ベンチの下に押し込められた段ボール箱の中で雨に濡れそぼり、寒さに震えてました。その細い首の上にのった小さい頭、不釣り合いなほどに大きな目、ピンと立った耳、体中が雨滴にキラキラ光って、小学生の女の子の目には宝物みたいに映ったものです。
  誰が捨てたか、誰が育てたか、こんな雨の日にそんな哀れな目をして啼いていたって誰も拾わないでしょうに。
  うちはアパートの2階にあります。アパートの名前は「かしわぎ荘」。家賃は月々7万円です。
  「ただいま」
  玄関のドアを鍵で開けると、小さな声で言いました。お母さんはうちにいるかしら? お買い物に行ってるといいな。でも台所の電気が点いている。できたら猫のことを言うのはなるべく後回しにしたいけど。
  そのとき、トイレで水を流す音が聞こえ、エプロンで手を拭いながらお母さんが出てきました。泥水まみれの長靴、ブラウスをびしょ濡れにして段ボール箱を抱えた娘を見て、彼女はしばらく無言でしたが、そのうち口をついて出てきた言葉はこれです。
  「猫ね?」  箱の中の生き物がピクリと動きます。
  「どこで拾ってきたの?」  貰い物とは考えません。
  「うちで飼えると思ってるの?」  アパートでペットを飼ってはいけません。
  一度に3つの質問。でも、一つとして答えなんか求めちゃいないんです。
  黙っているあたしを見て自分の優位を確信したのでしょう。それ以上のことは言わず、娘の自発的意志で小さな命を捨ててこさせようとしています。
  あたしはうんざりした気分になって天井を見上げました。 家の中は狭くて嫌い、北向きにしか窓のない暗い部屋は嫌い、口うるさいお母さんは大嫌い、こんなとこで我慢して暮らしてる自分はもっと嫌い。
  それにしても可哀想な猫。せっかく居場所が与えられるかと思ったらすぐに公園のベンチの下に逆戻りなんて。
  でも、心配しなくてもいいのよ。家の中が駄目だって、自分の好きにしていい空間があたしにだってあるもの。飼い場所が無いなら、あたしの背中に棲まわせてあげる。そこなら雨が降りかかることもないし、邪魔者にされることだってない。他の人に口出しされないあたしだけの楽園。
  なにやら決意したらしい娘の顔を、お母さんは訝しそうな目で見ています。
  子猫は嬉しそうにニャアと啼きました。

 
あれから10年がたちました。
 
あたしは大きくなりました。
  子猫も大きくなりました。
  あたしの体から養分を吸い取り、いまでは立派な人間の娘へと成長したのです。
  彼女はとても奔放でした。夜毎男をベッドに連れ込んでは欲望を満たしていたのです。 猫族の淫蕩な血がそうさせたのでしょうか。彼女は決して一人の男で満足することがなく次から次へと男を取り換えました。
  彼女とあたしとは表裏一体。背中に張り付いた彼女が男と寝るということはあたしもその人とベッドを共にすることです。
  こんなことしちゃいけないわ、少しは他人の身にもなってよ。そう彼女に抗議すると、
  「あなたって、モラリストなのね」とそう言って嘲るのです。

  あたしが微笑もうとすると、彼女は嘆きます。
  あたしが愛そうとすると、彼女は憎みます。
  あたしが産み落とそうとすると、彼女は殺します。
  何をやるにも正反対で、まるで一対の鏡のように向かい合わせ(背中合わせと言うべきでしょうか?)、少しも一緒になるということがないのです。
  そんなあたしたちにも一つになれる日があります。月に一度、月経の晩に。彼女のと、あたしのと、二人の性器からどろりと流れ出した経血が股の間で混じり合い、饐えた薫りを放って結合します。
  それは月と太陽が肌を重ね合う化学反応。錬金術師が追い求めたという賢者の石にも似た、永遠に滅ぶことのない死の滴。床に落ちれば凝固して、ルビーのように光ります。
  この刻だけは二人とも妙に安らいだ気分になり、互いに相手の事を愛おしく思うのです。

  そこからは他人の介在することのない、二人だけの秘密の時間。知らず知らずのうちに気分を出してきた右手があたしの乳房を揉みしだくと、左手は肩甲骨の辺りで屹立している彼女の乳首を抓ります。
  尾てい骨の下にはぱっくり開いた彼女のお宝。あたしのよりもひとまわり大きな花弁が息づいてる。そこにも手が潜り、あたしの部分と合わせて、前と後ろから行ったり来たり、前と後ろから行ったり来たり。厭きることなく繰り返します。
  右も左も、あたしの手首は血まみれで、愛欲の色に輝くのです。

  どうです。こんな悦びって、ちょっと他にはないと思いません?


  これがあたしの生い立ちです。
  こんな風にして育ってきました。
  こんな風にして日々が過ぎていくのです。