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戦争の余燼がまだあちこちに残っていた1949年、 その前年に中国から引き揚げてきたケベック外国宣教会の3人の司祭によって、
赤堤教会の活動が始まりました。 遠藤周作氏の小説にも出てくる、 玉電松原駅の埃っぽい道の竹薮の先の荒れ果てた庭の中の日本家屋が最初の教会でした。
背が高く結核後にもかかわらず活動されたブーレ神父、 漢字に詳しく美声のパラン神父、
若い金髪のブレン神父方が、 赤堤で最初のミサを捧げ、 マリア幼稚園を開き、 ボーイスカウト活動を始めました。
そのころ、 毎週日曜日、 50人ぐらいの信者と20人のボーイスカウトが、
幼稚園の質素な狭い講堂に集まってミサにあずかっていました。 その後ガールスカウトも結成され、
教会、 幼稚園、 ボーイスカウト、 ガールスカウトの4つの団体は協力し合って小教区共同体を発展させてきました。
御聖堂を建設するために教会が1960年から始めたバザーは、 最初の収益は5万円でした。
1963年、 幼稚園とボーイスカウトが加わった最初の合同バザーの日は、 あのケネディー大統領の暗殺の日11月22日、
日本時間の11月23日でした。 その後ガールスカウトも加わって4団体合同バザーとなって、
この近隣地域では最大規模のバザーとなりました。 昨年からは、 世田谷ファミリー宣教協力体の同じメンバー、
お隣の松原教会と、 お互いバザーの手伝いをし合っています。
1967年に念願の御聖堂が完成しました。 典礼暦の最後の主日は、 王であるキリストの主日で、
赤堤教会の保護者の主日でもあります。 また御聖堂はケベックの司祭たち、 とくにカロン神父により設計されました。
明るいカナダの雰囲気が伝わってきます。
ロワゼール、 ベランジュ、 デュポン神父を経て、 現在デロシュ主任司祭のもと、
281世帯、 489人の信者が、 家庭的な共同体の中で信仰生活を送っています。
信徒会は、 第二バチカン公会議の開かれた教会の精神を基礎にして、 司祭と信徒、
修道者が共に共同責任を持って歩もうと、 司祭と信徒の役割分担、 委員特に会長、
副会長職の任期制等、 東京教区のナイス2の先進的提案を取り入れた信徒会規約を持っています。
赤堤教会の土曜学校は、 リーダーの方々やシスター方のおかげでとても活発です。
今年は50人以上の子供たちが楽しく集まってきています。 またフィリピンのミンダナオ島のカガヤン・デ・オロの子供たちへの支援を、
いろいろな活動を通じて行なっています。 同じ街に住む未信者の音楽家の人たちが御聖堂で演奏するチャリティーコンサートもその一つで、
25回を数えるまでになりました。
教会の庭は、 ベンサン神父、 ラベ神父が丹精こめた花々が咲きみだれています。
赤いクリスマスのイルミネーションが光り輝く大きなもみの木と、 復活祭のころにそれは素晴らしく咲きそろう何本もの桜の大木は、
経堂、 赤堤、 桜上水、 松沢の名物になりました。
ヨハネ・パウロ2世の教えを胸に、 白柳枢機卿、 岡田大司教、 森司教、 デロシュ主任司祭と共に、 赤堤教会は信徒の霊性を高めつつ、 日本の教会の一員であるという意識を持って、 より一層地域に開かれたカトリック教会を目ざしていきたいと願っています。
(2005年東京教区ニュース掲載)
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