お 説 教 集

 

毎週日曜日のごミサで神父様がお話になったお説教を掲載しています。

2007年9月30日 年間第26主日

この貧しい人は、死んで……
アブラハムのすぐそばに連れて行かれた
(ルカ16・22より)

金持ちと貧しいラザロのたとえ


ロワゼール神父様

一人の父親が子供を背負って歩いていました。わたしはもっともっと早く歩いていたから、親子の一歩前をあるいていました。女の子はすごくおしゃべりで、元気そうです。それをみてわたしはなんとなく「こんばんは」と声をかけました。

女の子は聞こえなかったようでした。そこで父親が女の子にこんにちはと言いなさいと、言いました。父親の言うことを聞いて、女の子はこんにちはと私に言いました。お父さんに、元気ですね、というと、お父さんは元気すぎますよ、といいました。お父さんに、たいへんですねと声をかけて、わたしはその場を離れました。

ただ、ひとつの挨拶だけで、そのお父さんの、ちょっとだけですけれど、心を知りました。親と子との関係がなんとなく、わかったような気がします。

お父さんは疲れて家に帰って、その子の面倒をみなくてはならないわけです。その子はよく背中に乗って、さわいで、はしゃいでいます。だから、お父さんは元気すぎると思ったかも知れませんね。

わたしたちは信仰者ですけれど、人の関係というのはものすごく大事です。きょうの福音の中に、いろいろな場面をみることができるとおもいます。

金持ちとラザロとは、はっきりと違う生き方を描いています。そして、話はやはり、なかなかいいことを結論として言います。

ラザロは、いつも金持ちの家の玄関のところにいました。でも、金持ちは生前、ラザロに気がつかなかった。それを見る目がなかった。それよりも謙虚さがなかった。

ラザロは、金持ちから見てくだらないやつですね。さらに病気で、らい(らい病)でやられてしまった人でした。皮膚病だったようです。名もなくて、そこにあるものを拾って、なんとなく生き続けていた。金持ちよりは先に死んでしまったけれどもね。

わたしたちの信仰というもの、ここにいるだけでそのしるしですけれども、その信仰は誰かを通して、わたしには伝わってきたんです。ある神父か、ある友達か、ある本か、いずれかを通して。

本当に偶然に、自分の心の中に信仰を感じたという人はは少ないと思います。信仰の種があったでしょう。しかし、種を育てる誰かがいなければ、誰かが種を育てなくてはだめなんです。残念ですけれども、聖霊だけではだめです。それは聖霊が誰かを通してやることです。聖霊だけではだめというのは、そういうことです。

このことを思い出して、毎日生きるということが大事です。そして逆に、私は人の心の中に、その種の信仰を育てることがつとめです。本当の宣教はそうです。宣教は大きな声で話すことではないし、伝えることだけではないと思います。宣教は、その人の心を見抜く目を持つことです。

神様は私を通して、人の心にご自分のことを伝えています。福音を伝えています。それはほんとうに大きな使命だと思います。

ちょうど、今日の福音の中で書いてあります。みなさん気がついかもしれませんが、その金持ちはアブラハムに対して、自分の親戚とか親兄弟のために、謝っているところがあります。(死後)自分と同じ状況にならないように願っているのは、ひとつの親切だと思いますけれども。でも、おまえの兄弟の罪は、モーセと預言者と、かれらに耳を傾けなかったことだといっています。

預言者は私たちなんです。私たちは預言者、人の心を生かし得るのです。 イスラエルの人たちは死んでいった、国民として、神の民として本当に死んでいった。 預言者は言葉をもって、その人たちを目覚めさせた。それはある意味で、助けたということです。

わたしたちも同じように、ある預言者をとおして、信じるようになりました。

だけども、そのほかにもうひとつのことが大事だと思います。私たちが考えなくてはならないことは、人は誰でも、心の中に聖霊がいるということです。

わたしが知っている神父なんですけれども、刑務所の中でお仕事をしています。それで、刑務所の中にいろいろな人がいます。この人は、犯罪を犯した人たちの心の中に、いつも素晴らしいものを見出だしています。本当にいつも見つけています。このような人でさえ、自分のなかで神が働いているということです。

つまり。誰の心の中にもある意味でイエス様が生きている。その人がそういうことを知らないとすれば、残念ですけれど。でも、そういうことをある人に対して、友達に対して、 わかるように話ができれば、最高の幸せではないでしょうか。まあ、ちょっとやってみましょう。

自分でもやはりそれを忘れてしまいますね。イエス様が生きていることを忘れてしまいます。毎日毎日の仕事のなかで、どんどん、それを忘れてしまいます。さっきの福音の話では、忘れるのではなくて、知ることができないということを言っていましたけれども。

だから、その人たちを大事にするというのは、言葉だけではないですね、態度です。音楽のようなものを流してあげるということです。その人がちゃんとするように、ひきとめるということです。公園で、ひとつ話しかけるだけで、その人とのつながりができるのですから。

みなさんの身近な人で、身近になればなるほど、そういうことを話しづらいかも知れません。そういうときは、だから、話すことをやめましょう。自分の態度だけで伝えるのです。

わたしは何回も何回もそういう経験がありますけれども、皆さんのお葬式で、夫はぜんぜん信仰はいやで、絶対に洗礼を受けないと言っていたのに、何時間もしてから、例えば奥さんの目と態度を見て、死ぬ前に「お願いします」という。これは私たちのできるひとつの例でしょうね。

今日はそういう目を持つように、ラザロを見ていなかった金持ちのようにはならず、ラザロのような人に会ったときに、見られるような目を持つように、ミサの間にお祈りいたしましょう。


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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