お 説 教 集

 

2007年10月7日 年間第27主日

わたしどもの信仰を増してください
(ルカ17・5より)

            二人の使徒


ロワゼール神父様

カトリック新聞や、いろいろな雑誌において、日本人のなかで、岐部神父様、187人の殉教者の列福のことが書かれています。この人たちの心の支えであったのは何かを考えてみますと、ただ自分の力や また戦争のときに命をささげるようなことではないと思います。

この人たちを支えた力は何か。主体、体の力ではなくて信仰です。けれど、信仰が与えた霊が、臆病な霊ではなくて、燃えているような霊です。だから、この人たちの心のなかで、心が燃えていました。それで、どんなにつらくても、神のために、イエスのために命を捧げることが出来た。

それは簡単なことではありませんでしたけれども。イエス様が弟子たちにいわれたことを考えると、私たち自身の信仰はどんな風ですか。本当に燃えているかというと、そこまで行っていないような気がします。

私自身もそうです。ちいさな種の一粒ほどの信仰があれば、良いものができるとイエス様は言っています。そのとき人々は信仰がなかったから、イエス様はそのことを言ったのです。

弟子たちは3年だけだったかも知れませんが、でもイエス様によくついて行ったのです。そのときの弟子といいますと、日本の昔の仏教でも同じかもしれませんが、家族全部を忘れるほど打ち込み、弟子としてついていった。

それで、しばらくしてから、イエス様がどんな人かを分かっていた。でも、イエス様が十字架にかけられたときに弟子たちはどうしましたか。一人をのぞいて、みんな逃げてしまった。イエス様を信じていなかった。

彼らは、私たちもそうかも知れませんけど、うすっぺら。目にみえるもの、姿だけにこだわり、イエズス様のなかにある本当のすがたを見ぬいていなかった。それだけではありません。どこで弟子たちは変わったでしょうか。

ごぞんじのように聖霊光臨のときでした。あの臆病だったペトロ、(取調べを行う役人に対して)イエス様を知らないといったあのペトロが、みんなを前にして、力強く話をして、イエス様の証人になっていった。

結局、信仰の種がどこにあるか。聖霊の動きによってでなければ私たちは信じることができない。それで信仰は恵みといいます。自分の力ではなくて、霊によって私たちに与えられたものです。

だから弟子たちの願いは、「私たちの信仰を増して下さい」という願いは、その(信仰の)炎さえなかったということです。(そういうことでは)信仰を増すことは出来ないかも知れません。信仰を増すことは、本当に、すぐに、私たちがイエス様のことをおおやけに宣教することです。

だけども私たちの場合には、いろいろな問題が、ブレーキが出てきます。そこで止まってしまいます。だから、その聖霊に毎日従わなくては、ブレーキに負けてしまいます。自分が恵まれていること、そのために、力が出てくるのです。

弟子たちのように、私たちの信仰を増して下さいという祈りは、私たちのなかに聖霊よ来て下さいという祈りと同じこと。私たちを燃え立たせて下さい。燃えるような力をお与え下さい。 そういう祈りを毎日したら、どんなにか自分が変わっていくはずです。

自分の意思、自分の力、肉体的な力ではどうにも出来ません。心の底まで聖霊の存在を信じる。むずかしいことでは、ないかも知れません。

このミサの間に、自分の信仰が一粒の種のようになりますように。その種が大きくなりますように祈りましょう。


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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