お 説 教 集

 

2007年10月28日 年間第30主日

だれでも高ぶる者は低くされ、 へりくだる者は高められる
(ルカ18・14より)

                       ファリサイ派の人と徴税人


 

ロワゼール神父様

私の話が、教会のホームページに毎週のっているそうです。私はときどき変わったことを言ったりするので、今回は原稿を書いてきました。私はミサのときに原稿を読むのはあまり好きではないのですが、これで分かりやすくなればいいと思います。

誰でも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる。
この、へりくだる者とはどんな人でしょうか。どうして高められるのでしょうか。また、逆に高ぶるものはどうして低くされてしまうのか。これについて、皆さんといっしょに考えてみたいと思います。

皆さん、神様がどんなお方だと思いますか。この説教が終わったら信仰宣言があり、私たちも皆さんと一緒に「天地の創造主、全能の神である父を信じます」と言います。ですから、神様は、そういうお方です、と答える方もいらっしゃるかも知れませんね。それは確かに正しい答えです。教会の信条の冒頭にあるのですから、議論の余地はありません。

しかし、神様がこれだけだとすると、どうしてその全能、その限りない力を私たちの生きている地球の上に施して下さらないのでしょうか。神様が大変な力を持つお父さんと言われているのに、どうして戦争、暴力、地震、洪水、事故が起きるのを許しておられるのでしょうか。子供たちでも疑問に思うことです。これはたいへん大きな問題です。一回の話で簡単に片付けられる問題ではありませんし、そうするつもりもありません。

ご存知のように旧約聖書の中にこうした問題を扱っている一つの物語があります。それはヨブ記という本です。しかし、それにもはっきりとした答があるわけでもありません。ただ、人間は神様が持つ神秘の前にあり、謙遜な態度を持つしかないと結論しています。

今日のイエス様のメッセージは「誰でもたかぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とありますね。「誰でも」とイエス様が言われています。つまり、あなたも、私も、神父さんも、みんな例外なくということです。

考えてみたら、それは当然のことであります。なぜかというと、だいたいの場合、たかぶる者が嘘をつくからです。あの例えに出たファリサイ派の人は嘘を言っています。自分が善人だと言っていながら、人を馬鹿にして、威張っています。そして、慢心で膨れ上がるという一番ひどい罪を犯しています。

たかぶる者がどうして嘘をつくといえるのでしょうか。皆さんはイソップの話のなかで「牛とカエル」の話をご存知でしょう。カエルは牛を見て、自分も大きくなりたいと思い、一生懸命腹を膨らませます。膨らませすぎて、最後には腹がパンクしてしまいます。

同じように高ぶる者は、自分の本当の限界を忘れ、無理をしていつかパンク状態になります。現代のあらゆる問題は、ここから生じていると言ってもいいかも知れません。自然破壊のことにしても、経済界のいろいろな問題にしても、国際問題でさえもそうです。人間の素晴らしい営みがありながら、いつしか自分の限界を忘れてしまいます。ファリサイ派の人々は神に感謝はしていましたが、現代の多くの人々は感謝の祈りすらせずに生きているのですから、さらに恐ろしい。

「へりくだる者が高められる」とイエス様は言われます。
謙虚な人たちがどう高められるのかを考えたいと思います。

赤堤教会で昨日、ある信者さんの葬儀ミサが行われました。たいへんご高齢で亡くなられた方ですが、ミサに参加された方でお御堂が一杯になりました。その方はたいへん尊敬されていたのですね。私は、その方を良く知らなかったのですが、ラベ神父様のお説教の中で「故人はたいへん謙虚な方でした」と言われました。その時、なるほどと思いました。なぜ、それほどまでに尊敬されていたのか、その理由の一つが分かったような気がしました。

人の前でおごることなく、自分のありのままの姿と、持っている能力を隠さないで生きていたので、彼は出会った人たちから高められたのだと思いました。謙虚な人だったから、自分の心に神様からの恵みを受け入れる体勢もありました。ですから、洗礼の恵みをいただけたのです。へりくだる者が聖霊で満たされ、主なる神の存在、その命で自ら高められるのです。

イエス様、主キリストは全能でありながら、おごることなく、愛を持って十字架の死にいたるまで、へりくだった方でした。イエス様がこの世に生まれたところから、十字架の上で死ぬまでそうであったのです。これは神様の性格の一つであることを認めなければならないと思います。でも、これは今の世の中の人々に一番理解しがたいものかも知れません。これについて、 −へりくだる神− について言えることはたくさんあります。また、いつか皆さんといっしょに考えたいと思います。

どうして、わたしたちが謙遜でいなければいけないのか。今日のイエス様の例えに出てきた徴税人のように、自分が罪びとであり、神様のあわれみをいただかなければ、生きることは出来ないからです。また、この世に命をいただいたときから現在に至るまで、自分だけの力によって生きることは不可能でした。私たちは、すべて与えられたものによって、今まで生きてきたのです。

今日のミサでは、私たちが神のあわれみによってのみ生き、生かされていることを、いっしょに感謝しましょう。



(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

お説教集トップへ戻る

連絡先・地図を見る



 
ミサの時間をみる(Time of Mass)
Copyright 2006 All right reserved by Catholic Akatsutsumi Church