お 説 教 集

 

2007年11月11日 年間第32主日

すべての人は、神によって生きている
(ルカ20・38より)

人類を死から解放する復活のキリスト


ロワゼール神父様

教会暦によると、11月は「死者の月」とされていますが、本当は「永遠の命に生きている」者の月と呼んだ方が良いと思います。家族、友人などの亡くなられた方々が永久に消えた者ではなく、いま生きていると私たちが強く信じているからです。

カナダには「夜明けと光」という施設があります。これはガン患者がこの世の旅を安らかに終えるための施設です。キリストを信じる人ならば、この施設が「夜明けと光」と呼ばれるのを、とても素晴らしいことと感じるでしょう。人間の死というものは夜明けから光へというキリストの復活の朝をおもいだします。そして、患者の最後の苦しみがキリストの十字架の苦しみに重なり、そのことの意義が深まるのです。そこでは医者も、看護婦さんたちも、ヘルパーたちも、身内のひとも、付き添いの神父も、ひとつになって、患者を24時間見守っています。

私の義理の兄も今年の5月に肺がんのため、こうしたホスピスで亡くなりました。私の姉の夫です。姉の話によると、なくなる5分前に彼女の手をしっかり握って「ありがとう」と言ったそうです。そして、彼が好きだったアルカデルトのアヴェ・マリアを聞きながら、意識が途絶え、光の国に行ってしまいました。

そのとき、彼の顔はなんとも言えない、安らぎの表情をしていました。ですから、姉も、友人たちも、彼の死に際しては、さびしい気持ちというより、幸せな気持ちを感じたのだそうです。実際、姉は夫の死から2日間泣くことが出来ませんでした。というのも、夫が復活の栄光を味わっていることを確信していたからです。

人の死とは何でしょう。毎週の日曜日の信徒集会でみなさんは「からだの復活、永遠のいのちを信じます」と宣言します。これはとても重要なことです。なぜなら、それは皆さんの信仰の偉大さを示しているからです。《私はからだの復活、永遠の命を信じます》。み言葉と命のパンをいただくためにミサに来ることも素晴らしいことですが、この集まりで、公に死者の復活を宣言することも、やはり素晴らしいことです。希望に満ちた態度といえます。

葬儀ミサに集まる皆さんは、もちろん故人のために追悼の祈りを捧げます。わたしたちキリスト者は、人の死はそれが終わりなのではなく、死の後で永遠の命に変わり、いやしいからだは光の体に返って行くと考えます。「キリストは万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちのいやしい体を、ご自分の栄光のある体と同じ形に変えて下さるのです」とパウロが言っています(フィリピ3・21)。

ここで、ある問題について少し考えてみたいとおもいます。私たちの信じる復活が、ラザロ、またナイムのやもめの子供の再生とは違うということです。また、死んでから他の生物に生まれ変わるのとも違います。先ほど述べたパウロの言葉にあるように、死者の復活とは変容であり、復活のキリスト自身の体に変貌するのです。

どういうことか想像しにくいことですが、さきほどのマカバイ記にあるように確かです。「世界の王は永遠の新しいいのちへとよみがえらせて下さるのだ」。またイエス様も「神は死者の神ではなく、生きている神である」とおっしゃっています。私たちの信仰はキリストの復活に基づいているので、キリストの生命に行き、その復活にも預かるのです。

復活を信じることによって、私たちのこころの中に、いまを生きるための希望が生じるのです。だから、信じることがいかに大事であることか分かると思います。だから疑問をもっているときは、当然そういうときもあるでしょうが、「主よ、あなたを信頼し、あなたにすべてをゆだねます」というように祈りましょう。そして永遠に生きるということを思うと、わたしたちの先にこの世を去った人たちとまた出会えるということになります。キリストにおいて、なんと大きな家族のなかに生きていることでしょうか。

復活の信仰によってすべての聖人との交わり、その信仰と結びつくことが出来るのです。わたしたちは死刑を宣告されたのではありません。聖者とともに限りない命に召されるのです。本当に感謝しなくてはいけないことでしょう。


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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