お 説 教 集

 

2007年11月25日 年間第34主日

「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
(ルカ23・43より)


ロワゼール神父様     

先ほどの賛美歌にありましたけれども。誰でも年のおわりになると、今年あったことを振り返るものですね。いろいろな人との出会いがあったでしょうし、感謝することもあるでしょう。


今日の祝日は王であるキリストの祝日です。キリストは王であり、世界を治められる方です。ただ、王であるキリストは普通の王とは違います。普通の王なら、自分の国を思って治めるのではなく、自分さえ良ければと、自分を優先して、その国を治めます。

王の時代は終りを告げ、政治家や政党の時代が来ましたが、やはり同じようなことを繰り返しています。私たちの信じる王は、本当に世の中の見捨てられた所で、すべてを捧げる王です。あざわらい、侮辱され、ののしられた王です。


あざわらい、ののしる人たちは、なぜそうしてしまうかというと、それは弱い存在だからです。人間は運命、自分を救うことが絶対できない弱い存在です。自分を自分で救おうと必死になっている、いわば可哀想な存在なのです。

権力者は権能で、兵士たちは暴力で人を抑えようとしました。一人の犯罪人は他人を傷つける反社会的な方法で、自分を救おうとしています。私たちがいま生きている世界、文化では、権力があれば非暴力で、人を治めることが出来ると考えています。その方法で平和をつくろうと考えています。でも、それでは平和にならないはずです。

イエス様はいちばん偉い人を救おうとして、その人のそばまで来て、その前にひざまづきました。そして自分自身は何もとらないで、自分をすべて捧げて、人のためになるわけです。この絵にあるように、十字架によってすべてが救われました。


十字架の上でイエス様は何をなさったでしょうか。自分のことは忘れて、人のために自分を捧げたのです。それが私たちの信じている王です、それによって、私はいま生きているのです。

昨日はここで洗礼式があって、まだ洗礼を受けていない方もいらっしゃいました。この福音の言葉はどういう意味ですかと問われました。というのは、一緒に十字架にかけられたのは犯罪人です。一人はイエス様に神のしるしを見せろといい、もう一人はそうではなった。思いがけない展開ですよね。

犯罪人の一人がイエス様に「あなたの御国に入るときには、私を想い出して下さい」といった。イエス様の答えは明らかで「あなたはきょう、私といっしょに楽園にいる」とおっしゃった。この犯罪人は幸せな人ですね。私も最後のときにこんなふうにいわれたら、かえす言葉もありません。

イエス様は犯罪人の心をちゃんと見て、最後には心のなかに入っていった。神の存在はこの人の心のなかに入っていました。 私たち一人一人も同じような状態にあると思います。だから、今日は喜びをもってミサを捧げたいと思います。


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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