お 説 教 集

 

2007年12月9日 待降節第2主日

エッサイの株からひとつの芽が萌えいで……
(イザヤ11・1より)

 


ロワゼール神父様

皆さんはひまわりという花をご存知でしょう。ひまわりは、太陽が動くのにあわせて、顔を、花の正面を、東から西へ動かします。この花のイメージから、私たちは何を思い浮かべるでしょうか。何を考えるでしょうか。ひまわりは年をとると、だんだん硬くなって、陽の動きに合わせて、顔を動かすことが出来なくなります。私たちも同じように年をとると、その柔らかさというものが消えてしまう危険があります。


今日の洗礼者ヨハネの言葉において、ヨハネがイエス様を救い主が来ると紹介します。私の後から来る方は、私よりもすぐれた方で、私はその方の靴のひもをはずす値打ちすらない。実は当時、主人の靴のひもをはずすのは奴隷の仕事でした。だからヨハネが言ったのは、自分がイエス様に対して、これほど低いということです。わたしたちが、あのひまわりのように、いつもキリストに向かって、キリストを目指して、キリストを見て生きること、それは主の教えにあることです。しかし、私たちの心の中には硬くなってしまうときがあります。だから待降節の間にわかって、改めることをしなくてはいけません。

ヨハネの言葉では、悔い改める、回心するということです。じつは「回心」という言葉は、土を回す、つまり掘り返すということから来ています。だから、かたまった土を、もう一度掘り返し、日に当てることによって、またその樹が栄養をうけることができるというようなことですね。ですから、私たちは待降節の間に、同じように回心しましょう。それによって、今日のイザヤ書の本当に素晴らしい言葉に近づくことが出来ます。

当時のイスラエルはだんだん神から離れていきました。ですから、回心することが重要でした。回心するとどうなるか。「すべての動物は仲良くする」が出てきます。たとえば、ライオンは生きるために他の動物を食べなくてはならないですが、その状態さえないということです。まったくの平和な世界が、救い主によってあらわになる、世界がまったく新しくなります。

パウロも私たちに希望を持つように、といいます。神がいつくしみ深いかたで、それで私たちのそばにおいでになるかた、私たちを自由にして下さる方です。私たちも本当に自由になりたい。もうちょっと人にやさしくすれば良かった思ったり、いつのまにか人間関係がわるくなっていたり、そういうときは、やっぱり心が痛んでいるのです。かたくなっているのです。心が自由をなくしているのです。かたまったエンジンオイルのようになってしまう。ですから皆さんには待降節のうちに、また心を暖かくする、やわらかくして欲しいですね。

そこで最後に皆さんに考えていただきたいのは、どうしたらいいのか、何をしたらいいのかということ。「エマニュエル」という歌のなかに、待降節の間にどうしたらよいのかを考えるヒントがありますので紹介します。

歩けぬ人のために 私は足になる
見えない人のために 私は目になる
話せぬ人のために 私は口になる、
聞こえぬ人のために 私は耳になる、
貧しいひとのために 代わりの親になる
知らぬ人のために 私は友になる
神のともしびを、私は目指し、神の光を待つ

まあ、そういうようなことが私たちの使命ですね、キリストを望んで、キリストを知って、キリストの代わりになるということ。キリストの口、手、足になることです。このような人間になれば、最高のクリスマスを迎えることができると思いますけれども、わたしを含めて、皆さんも最高のクリスマスを迎えていただきたいと思います。

 


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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