お 説 教 集

 

2007年12月25日 主の降誕

今日、あなたがたのために
救い主がお生まれになった
(福音朗読主題句 ルカ2・11より)


ロワゼール神父様


自分の貧しさを認めている人は幸いである。
心の柔和な人は幸いである。
あわれみ深い人は幸いである。
こころの清い人は幸いである。


主キリストのご降誕を祝い、お慶びを申し上げます。皆さん、おめでとうございます。

皆さんが今夜こちらの教会においでになったのは、
本当のクリスマスを味わおうと思ったからに違いありません。
本当によくおいでになりました。

お誘いのパンフレットにもありましたように、
ご一緒に祈りを捧げ、素晴らしいクリスマスを祝いましょう。
いままでになかったクリスマスを祝いましょう。

教会は誰にとっても自分の家のように思っていただきたい。
「疲れたもの、重荷を背負っているものはみな、
わたしのもとに来なさい」とキリストが言われたように、
キリストの心を持っている教会は同じく、癒しの場所、
平和と安らぎの場所であるべきでしょう。そうであるように祈りたいです。

さて、皆さん。クリスマスのごミサに、
具体的には何を求めておいでになったのでしょうか。
いわば動機(理由)は何でしょうか?

昔から全世界の人が歌っている賛美歌でしょうか。
それはいいことです。どうぞ声高く歌いましょう。
最初のクリスマスに天の使いたちが歌っていたように。

この一年間に、たくさんのお恵みをいただいたことに感謝、賛美いたしましょう。
今年はあれも出来た、これも出来た。新しい友達が出来た、孫が出来たなどなど、
どれも喜びをもって歌いましょう。

別の方にとっては、ごミサに来た動機は、
自分の心の中に平和を求めているからかも知れません。
それもいいです。
クリスマスのメッセージの一つは平和なのです。
「天には神に栄光、地には善意の人に平和あれ」と祈りの
中にもある「平和」ですから。

先ほどのイエス様の言葉の後に
「わたしの弟子になりなさい。そうすれば、
魂は安らぎを見出すでしょう」(マタイ・11章29節)とあります。
イエス様の弟子になりましょう。弟子になれば幸せと平和をいただけるのですから。

他の動機として、ただ皆さんと一緒に祈りたいという方もいらっしゃるでしょう。
それも大変結構なことです。
祈りは心の呼吸のようなものです。魂の呼吸です。
呼吸をしなければ、人間は5分ともちません。
祈りなしに、信仰は半年ともちません。

感謝するときに祈り、悲しいとき、困ったとき、喜んだとき、
苦しいときに祈り、病気の友人、愛している人のために祈り、
世界平和のために祈る。
いつでも、どこでも祈ることは出来ます。
祈りによって神様とつながる、いのりは心と心の間の電流です。

この前、一人の高校生がいたので聞きました。
「君は祈っていますか」
すると、この高校生は困った顔をして
「いいえ、やっていません。」と答えました。
そう聞いて、祈らないなんて、かわいそうにと私は思いましたが、
同時に彼は本当に祈っていないのかなとも思いました。

もしかしたら、その子は手を合わせないと
祈りではないと考えているのかも知れません。

でも、そうではありませんよ。祈りは心と心の通じ合いです。
よほど心をしっかり閉じていないかぎり、どこかで祈りをしているはずなのです。
だから、今日もこの聖なる夜に祈りましょう。
イエス様の御前で、イエス様が聞いてくださることを信じて。

動機ではなく、ただここに来ちゃった人もいるでしょう。
自分はカトリック信者だから、少なくともクリスマスと復活祭には
教会に行かないとね、と考えてここにおられる方。
それでも結構です。

なぜなら、イエス様はそういう皆さんも待っていたのですから。
イエス様はあなたのこころを養いたい、いのちを与えたい、
洗礼・初聖体のときに感じたお恵みをまた思い起こしていただきたいとお考えなのです。

そして、何よりイエス様は「あなたは私の愛する子ですよ」とおっしゃりたいのです。
冷たくなった信仰を暖めたい。忙しすぎて祈りをする時間もない方には
「あなたがたの天の父は、あなたがたに必要なものを知っておられる。
だから思い悩むな」(マタイ・6章33節)ということを、イエス様はもう一度伝えたいのです。

ここに来た動機はクリスマスの神秘を味わいたいだけです、という方もいますね。
それも結構です。
クリスマスの神秘とは、神の子は人類のために、
そして私たちのために、すべてを捧げてくださったことです。

また、クリスマスの驚くべき出来事ということでは、
世の中で通用している価値を、まったく反対にひっくりかえしてしまうことがあります。

人を救うのは権力ではありません。人を救うのは、自分勝手な欲望の達成ではなく、
また欲しいものを所有することでもありません。
たとえば、人のために命を捧げることは救いです。

そう考えると、救いとは自分自身を与える自由なこころといえるでしょう。
そして、それこそが今日私たちが味わう神秘なのです。
神の子、人の子であるイエスは、母マリアとヨセフに身を預け、
何も持たずに、私たちの中に宿りました。
だから、まったく自由に、人の救いのために一生を捧げることが出来ました。

そんなことを信じているのか。
それはきれいな物語に過ぎない、と疑う方もおられるでしょう。

そういう方には、どうしたら信じてもらえるのでしょうか。
おそらく、それは自分の心の深いところにいる、
神の声に耳を傾けることによってでしょう。

そして、その声はきっと、あなたにこう語りかけているはずです。
「あなたを幸せにしたい。あなたはわが子だから、私の愛で満たしてあげたい」

アーメン。


 


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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