お 説 教 集

 

2008年1月13日 主の洗礼

「これはわたしの愛する子、
わたしの心に適う者」
(イザヤ3・17より)


ロワゼール神父様



今日の朗読で読んだところを、いま一度皆さんで読み直してみましょう。

「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、
あなたを形づくり、あなたをたてた。」(イザヤ42)

「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。
どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、
神に受け入れられるのです」(使徒言行録10)

「そのとき、『これは私の愛する子、わたしの心に適うもの』という声が、
天から聞こえた」(マタイ3)

みなさん、どういうきっかけで洗礼を受けられたでしょうか。
おそらく、一人ひとり違うと思いますが、
成人になってから洗礼をお受けになった方は、
誰でも心の中になにか呼びかけを感じたのではないでしょうか。

そして洗礼を受けた恵みによって、
心に喜びと清らかさを感じたのではないでしょうか。

幼児洗礼の場合は、これとは少し違いますね。
清められたと感じることはまれでしょうが、
第二の洗礼と呼ばれる赦しの秘蹟のとき、
罪から解放されたことで、やはり喜びと清めを感じることが出来ます。

洗礼とはどんなものでしょうか。
日本人の方に洗礼をすすめたとき、
「わたしは洗礼をいただくのに、まだ相応しいものではありません」と
言われることがよくあります。

なんだか洗礼を受けるためには
聖人のように立派な人間になるか、
学校の卒業証書のようなものを取得しないとダメとお考えのようです。
これには学歴社会の影響があるのかも知れません。

しかし、皆さんよくご存知のように、洗礼によって、罪が赦されるのですから、
赦されてから(卒業証書のようなもの)を授かっても、
遅くはないと私は思うのですが、どうでしょうか。

それでは洗礼とはどんなものでしょう。

今日はイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを祝います。
洗礼によって人が赦されるとすれば、
罪ひとつないイエス様はなぜ洗礼を受けたのでしょうか。
先ほどの福音のなかでヨハネが述べたことは当然のことです。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきだ」

しかし、イエス様は答えます。
「今は、とめないでほしい。正しいことをすべて行うのは、
われわれにとってふさわしいことです」

正しいこととは何でしょうか。
イエス様の言葉は、「正しいこと」や「正義」といった言葉で翻訳されます。
このことはとても重要な問題です。人類の問題なのです。

個人的な話になりますが、私が小学生だった頃、
学校の男の子たちの間で「回転ゲーム」という
少し危険な遊びが行われていました。

ゲームのやり方は次のようなものでした。
子供たち数人が手を繋いで1列に並びます。
はしの一人を軸にして、手をつないだみんなが1列になって回転を始めます。
軸となった子は隣の子を振り回すだけですが、
一番外側の子は、猛烈なスピードで走らなくてはなりません。
友人といっしょに遊んでいた私は、
そのときちょうど一番外側だったんですが、
4番目の友達とその隣の子の手が離れてしまいました。

わたしは遠心力ではじきとばされ、友達の下敷きになって倒れてしまいました。
そのとき、肩をいためてしまったので、医者にいくと、脱臼と言われました。
接骨院で、なおすにはなおしてもらったのですが、うまく治らず、
それ以降、ボールをうまく投げることが出来なくなってしまいました。

 さきほど言った「人類の問題」とは、人間と神様の間の関係のことです。
この大切な関係がまさに「脱臼」してしまったのです。

人が神から離れてしまった、自分の力でもとの通りに
なおすことが出来なくなったのです。
それは罪です。罪とは断絶なのです。
そして、断絶を直すことこそ、
キリストの言葉でいう「正すこと」「正しいことを行うこと」なのです。

イエス様は外部からではなく、
神との関係を「脱臼」させてしまった人間のなかにお生まれになり、
しかもその罪を背負ったのです。

洗礼をお受けになったことは、そのことを表しています。
この行為が人間すべての罪の重荷を背負ったことを示すのです。
なんと自分を低くする行為でしょうか。

そしてイエス様がこうしたとき、驚くべき出来事がありました。
「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。
そのとき、天がイエスに向かって開いた。
イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、
天から聞こえた。」

人間と神との関係は、イエス様がお生まれになってから断絶が回復していくのです。
神がご一緒だったからです。

私たちが受けた洗礼は、イエス様の洗礼とどこが違うのでしょうか。
もちろん違いはあります。
違うのは、私たちは他人の罪ではなく、自分の罪だけを背負い、
洗礼にあずかり生まれ変わったことです。

では、私たちの洗礼がイエス様のときと同じだったことは何でしょうか。
それは、私たち一人ひとりが「神の愛する子」になったことです。

私たちは神との断絶から正されて、
神の家族、つまり教会の一員となったのです。

この世に生まれて、選ばれたものとしての
私たちの使命の大きさを、感じないわけにはいきませんが、
それよりも、つまり、クリスチャンとしての公的な使命より、
もっと大切なことは誠実にキリストに生きることでありましょう。

聖アウグスティヌスが次のように言っています。
「兄弟たちよ、よく悟りなさい。私たちはクリスチャンにされただけではなく、
それよりも先ず、キリストそのものにされたことを」

 


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

お説教集トップへ戻る

連絡先・地図を見る



 
ミサの時間をみる(Time of Mass)
Copyright 2006 All right reserved by Catholic Akatsutsumi Church