お 説 教 集

 

2008年1月20日 年間第2主日 キリストの洗礼

「“霊”が鳩のように天から降って、
この方の上にとどまるのを見た」
(ヨハネ1・32より)


ロワゼール神父様

(子供ミサにて)
皆さん、今日はよくミサに来られました。今年は皆さんにとって良い年になるように、一緒に祈りましょう。リーダーに今日の子供ミサに来いといわれたから来たという人もいるでしょうが、それはリーダーを通して神様が皆さんをミサにおまねきになったんだと思います。

私たちが何か良いことをしたりするとき、そのときは誰かが皆さんに、話しかけてるんです。それはお父さんお母さんを通して、先生を通して、ボーイ、ガール、土曜学校ならリーダーを通して、神様が語りかけているんです。ですから、お父さんやお母さんたちに従うということは、神様に従うということなのです。神様は皆さん一人一人の前に直接は語りかけません。いつも誰かを通して話しかけるんですね。

神様の証し人(あかしびと)と呼ばれる人がいます。皆さんを神様の方に導いてくれる方です。皆さんにいい影響を与えます。反対に、悪いことをしようといって、皆さんをさそう人もいるでしょう。でも、悪いことというのは、だいたい人間の暗い心から出てくる問題です。もちろん、それにはしたがってはいけないわけです。

今日はここで祈ることが出来ます。ここに集まった人たちは、みんな祈ることがあって集まっている人が多いのです。祈るというのは人間の心の呼吸です。体には呼吸が必要です。呼吸をとめたら死んでしまいます。ためしに30秒やってごらんなさい、たまらないはずです。

心の場合にも呼吸が必要です。それが祈りです。だから祈りがなければ心がだんだん鈍くなってしまいます。自分勝手なことしか考えなくなってしまう。祈りというのは本当に大事です。何のために、どんなことを祈るか。それは一人ひとり違いますね。そのときのシチュエーションによります。

今日は世界中の教会で、イエス様を信じている人たちがひとつになりますようにとの祈りを捧げています。それはイエス様を信じている人たちだけではなくて、みんな、神様、仏様を信じている人がみんな、この世界に生きていて、仲良く、平和に生きることが出来るように、この一週間、とくにお祈りを捧げているのです。本当に、みんな心をひとつにして、平和を求めるなら、世界がどれだけ良くなるか分かりません。

イエス様を信じている人たちにとって、また他の人たちにとっても、自分たちの間の違いを越えるということですね。自分たちの違いを越えて、ひとつの心になって生きること、これこそイエス様が最後の祈りでありました。「父よ、みながひとつになりますように」とイエス様は天のお父様に祈って、それから殺されて、ご復活なさったのです。イエス様ご自身がなさった祈りを、私たちも祈りましょう。

ヨハネという人がいました。イエス様のいとこですね。イエス様にとっては先駆者といいますか、イエス様の先を行って、各地でいろいろな話をしました。彼はイエス様はどのような人かを証したのですけれど、この証しということを少し考えてみたいとおもいます。

証人(しょうにん)という言葉がありますね。いろいろなことを、こうでした、ああでしたと、証言するひとですね。今年はペトロ岐部と187殉教者が聖人として認められる年なのです。聖人というのは、イエス様のことを証しして、そのために命を捧げて、そして殺された人たちです。

聖人すべてが殺された人かというと、そうではありませんが、殉教されたということです。今年はこの人たちのために、大きなお祝いをして、共同体のなかでこの人たちが聖人として列福されます。

1600年代、殉教した人たちのなかに2人の子供がいました。ひとりは13歳、ひとりは5歳の男の子でした。名前はトーマス三石、ペトロ服部といいます。500年前のこの時代、とても困難な時代でした。当時、キリスト信者と人前で明らかにすると殺される、死刑にされる時代だったのです。こわい話をしたくはないのですが、この人たちは首を切られて殺されてしまうのです。トーマスとペトロのお父さんもいっしょに殺されます。

トーマスが殺されるときお父さんが先に殺されたのですが、13歳の男の子がお父さんの遺体のそばに来て、そばに横たわり、お父さんの左手を自分の胸にもっていった。ペトロの場合、5歳の子ですけれども、お父さんの姿を見ると走りよって、お父さんのそばにいて、自分の服を全部脱いでしまって、手を空に向かって伸ばしたそうです。

処刑人たちは、そういう光景をみて、たまらなくなって、子供たちを殺せなくなってしまった。ただそこには非情な人もいて、結局その人が子供たちに手を下しました。どうしてそんなことが出来たのかと思います。5歳の子たちはイエス様と同じように殺されたんです。本当に、どこに違うところがあるでしょうか。

どうしたら、こういう風に証しできるのか。これは本当に人間の力だけとは考えられません。その人たちは神様を信じるだけはなく、神様のために命を捧げるような力、何かをいただいたんです。自我の強い人は、なにか悪いことに洗脳されて、自分を見失って、人を殺すんです。
神の愛に照らされた人たちであれば、そういうことはしません。

当時の宣教師が子供たちの遺骨を抱いて、マカオに持ち出しました。その遺骨が14年前に日本に戻されました。いま、その保管場所などは秘密にされています。列福などにあたり、いろいろと調べることなどがありますので。でも、いつか公にされるでしょう。いまは、こんなことはないかも知れません。平和な時代ですから。

では、いまはどんなことをしたら良いのでしょうか。

ここで、ある歌を皆さんといっしょに歌いたいと思います。参考になるかも知れません。イエス様が一番という歌です。

どんなことがあっても、皆さん、イエス様が一番とたたえることです。どんなときも。自分が病気のときも悲しいときも、本当に一番大事なひとは誰ですか。それはイエス様なのです。二人の男の子たちも、自分の命よりもイエス様が大事だと思ったわけです。証しするということは、どんなことなのかを理解する手がかりになるのではないでしょうか。それでは、元気よく歌いましょう。

(ギター伴奏)
どんなにさびしいときにも どんなに悲しいときにも
イエス様がいちばん イエス様がいちばん
たとえそれが どんな場合でも 
イエス様がいちばん イエス様がいちばん
だってイエス様は神様だもの だってイエス様は神様だもの 

どんなに泣きたいときにも どんなにさけびたくても
イエス様がいちばん イエス様がいちばん
たとえそれが どんな場合でも 
イエス様がいちばん イエス様がいちばん
だってイエス様は神様だもの だってイエス様は神様だもの 
 

 


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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